新田義興

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新田 義興(にった よしおき)は、南北朝時代の武将。新田義貞の次男。

生涯

1337年建武4年/延元2年)、奥州北畠顕家が西上する。これに呼応して上野で挙兵し、顕家の奥州軍に加わる。吉野で後醍醐天皇に謁見し、元服。父義貞の戦死後、越後に潜伏したと見られる。

観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国北条時行らとともに挙兵する。正平一統が破綻すると、1352年正平7年/観応3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵。鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。

尊氏が没した半年後の1358年正平13年/延文3年)、義興は尊氏が亡くなったことを時期到来とばかりに鎌倉奪還のため挙兵、鎌倉をめざした。これに対し尊氏の子で鎌倉公方足利基氏関東管領畠山国清は、竹沢右京亮遠江守江戸高重にこの迎撃を命じた。 はじめ竹沢は少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙ったが果せず、江戸遠江守とその甥下野守の協力を求めたとされ、江戸両氏はこのとき三百余騎を率い、太平記によると一族の蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加していたとされる。10月10日、義興と主従13人は、多摩川矢口[1][2]で謀殺された。齢28。

その後江戸遠江守、竹沢右京亮らは入間川御陣の足利基氏のもとへ馳せ参じ、忠功抜群として関東管領の畠山国清に褒賞され、それぞれ数カ所の恩賞地を拝領したが、江戸某が義興の怨霊により狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために神として祭ったという記述が、『太平記』にある。後に新田大明神として尊崇される。歌舞伎の「神霊矢口渡」は、この事件を扱ったものである。東急多摩川線武蔵新田駅の「新田」は、新田大明神を祭った新田神社に由来する。

義興は出自が低い側室の子[3]であり、父の義貞からは疎まれていたようである[4]。また、北畠顕家の軍勢に同行していたことが、顕家に対抗意識を抱いていた義貞の不興を買った[5]

1352年、長楽寺に対して義興が発給した、狼藉を禁止する趣旨の文書が残っている[6]。また、水野致秋に宛てられた8通の発給文書に貼付されている花押が長楽寺宛ての文書のそれと類似しており、これらも義興が発給したものであろうと推定される[7]

※こちらは「胴塚」になり、「首塚」は入間市の愛宕神社にある。

脚注

  1. 義興謀殺の場所については、現在の大田区か、もしくは稲城市の矢野口の2説がある。峰岸・134頁
  2. 中世武蔵人物列伝・114頁
  3. 峰岸・133頁
  4. 中世武蔵人物列伝・113頁
  5. 中世武蔵人物列伝・113頁
  6. 峰岸・134頁
  7. 峰岸・134頁

参考文献

  • 中世武蔵人物列伝(さきたま出版会) ISBN 4-87891-129-8
  • 峰岸純夫「新田義貞」(吉川弘文館・人物叢書) ISBN 978-4-642-05232-0