文宣帝

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 中国君主 テンプレート:Wikisourcelang テンプレート:Wikisourcelang 文宣帝(ぶんせんてい)は、北朝北斉の初代皇帝。姓は渤海郡県(現在の河北省景県)の人。

生涯

東魏の権臣・高歓の次男に生まれる。兄の高澄が部下の蘭京によって殺害されると、後を継いだ高洋は蘭京を誅殺して兄の仇を討った。以降着実にその後継者としての地位を固め、孝静帝により丞相、斉王に封じられた。しかし高洋は、傀儡皇帝でしかなかった孝静帝の臣下としての地位に満足せず、武定8年(550年)、23歳の時に孝静帝に禅譲を迫って帝位に即き、北斉を建てた。なお、孝静帝はのちに文宣帝の命で毒殺され、東魏の一族も片っ端から殺されている[1]

即位当初は政務に力を注ぎ、楊愔を登用して州郡の削減と官僚の削減、加えて富国強兵政策を実施し、農業、塩鉄業、窯業を中心にした経済を背景に、北斉を短期間の内に国家として成長させた。軍事面では柔然契丹高句麗などを攻撃し、勢力範囲の拡大も実現している。

しかししばらくすると政務を省みなくなり、酒色に溺れて宮城の造営で10万の民を徴用するなど奢侈を極めるようになり、民衆生活を圧迫した。また文宣帝は自らが漢化した鮮卑族でありながら、その劣等感を常に持っていたために、漢族の大量殺害を実行し、同胞である漢化した鮮卑貴族の利益を維持した。

腐敗した生活は寿命にも影響を与え、31歳の若さで崩御した。文宣帝の死後は北斉内部での混乱がいっそう強まっていった。

人となり

  • 外見は茫洋としてして兄弟や周りから笑われていたが、父親の高歓は真価を見抜いていた。
  • 王朝創始者だから有能といえば有能なのだが、執念深さと残忍さ、そして死因ともなった酒乱が欠点であり、その勢いでたくさんの人々や臣下達が殺害された。有能さと暴君的要素を併せ持った二重面の魔性の人物といえるだろう。

逸話

  • 幼い頃、高歓が子供たちの才能を確かめようと絡まった麻糸を与えては解くように課題を与えた。他の息子達は解くことができなかったが、高洋はその絡まった糸を刀で断ち切り、「乱れたものは斬らねばならない」と答えた(『北斉書』文宣帝紀、『通鑑記事本末』)。これは「快刀乱麻を断つ」という故事成語のもととなったといわれる。西洋にも似た話が伝わる(ゴルディアスの結び目)。
  • ある時、文宣帝が悪酔いしたので母親の婁氏が鞭を打った。すると文宣帝は非常に怒って「なんだ?この婆さん、他所に嫁に出してしまうぞ!」と叫んで、自分の母親に過って怪我させた。しかし、酔いが覚めると過ちに気づいて深く後悔し、「わしは母上に言ってはならないことを言ってしまった。どうか罪深きわしの背中を打ってくれ」と強引に臣下に自分を杖で打たせて、自ら母に心底から詫びた。
  • 長い鋸など処刑道具を常に準備していて、酔うたびに戯れで人を殺した。そのため楊愔は宮殿の庭に死刑囚用の檻を作った。無論、生贄のためであり、3ヶ月間文宣帝に殺害されなかった者は解放されたという[2]
  • 家臣の歌妓であった薛氏という女性を強引に嬪とし、またその姉をも後宮に納れた。しかし、猜疑心の強い文宣帝は、薛嬪と家臣の内通を疑い、家臣を殺害した上、脅迫として薛嬪の姉を鋸引きの刑で惨殺した。後に薛嬪をも殺し、その骨で琵琶を作らせた。
  • 僕射の崔進が卒去した時、その死を大いに悲しんだ。ある時、文宣帝はその未亡人の李氏に対して問うた。
「崔進のことを思い出すか?」
「どうして、忘れられましょうか?」
「それならば、崔進の傍らに行くがよい」
と自ら剣を抜刀して、李氏を斬り捨てたという。
  • 占い師が文宣帝の寿命を占った時、占い師は90年生きると予言したが、さすがに文宣帝は占い師が予言をごまかしたのを見抜いたという(実際に出た結果は30年だった)。

宗室

后妃

兄弟

脚注

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先代:
北斉の初代皇帝
550年 - 559年
次代:
廃帝
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  1. 宮崎市定 『大唐帝国 中国の中世中公文庫 ISBN 4122015464、301p
  2. 宮崎、301-302p