戸田氏共

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戸田 氏共(とだ うじたか、嘉永7年6月29日(1854年7月23日) - 昭和11年(1936年)2月17日)は、江戸時代末期(幕末)の大名美濃国大垣藩第11代藩主。大垣藩戸田家12代。本姓は源氏、藤原氏とも(幕府への制式な届け出は藤原氏)。家系は三河国人の戸田氏と同族で戸田氏輝を祖とする大垣戸田家。位階勲等爵位は、従一位勲一等伯爵

第9代藩主戸田氏正の五男で、第10代藩主戸田氏彬の弟。正室は岩倉具視の三女・極子。子は長女・孝子(細川護成正室)、次女・米子(戸田氏秀正室)、三女・幸子(松平直平継室)、五女・富子(戸田氏秀継室)。官位従四位下采女正侍従官職はオーストリア全権大使、式部長官など。

経歴

安政元年(1854年)7月23日生まれ。慶応元年(1865年)10月3日、兄・氏彬の病死により、末期養子として家督を継いだ。慶応2年7月19日、従五位下采女正に叙任する。慶応4年1月10日、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により、新政府から朝敵として入京禁止を命じられる。そうした状況のなかで、家老の小原鉄心は藩論を勤王・恭順にまとめる。同年1月16日、藩主氏共は直ちに上洛し、新政府に謝罪する。そして、東山道鎮撫使の先鋒役を務めることになった。4月15日に正式に朝敵から除外されて、戦後は一転して賞典禄が授与された。

明治2年(1869年)6月18日、大垣藩知事に就任する。明治3年(1870年)閏10月19日、大学南校への入学を願う。明治4年2月、米国留学のために藩知事を辞任する。同年4月4日、横浜港を出発する。弟氏益らも同行する。

帰国後の明治12年(1879年)10月に文部省御用掛を命じられた。明治17年(1884年)、伯爵を授けられる。明治19年(1886年)3月に公使館参事官、明治20年(1887年)5月に弁理公使と累進し、同年6月にオーストリア全権公使となった。さらに、明治25年(1892年)に宮内省の狩猟官、明治30年(1897年)に諸陵頭兼主猟官、明治31年(1898年)に式部官兼狩猟官、明治33年(1900年)5月に宮中顧問官、明治38年(1905年)9月に式部長、明治41年(1908年)1月に式部長官となった。大正10年(1921年)10月、式部長官を退任する。勲一等瑞宝章受章。

昭和11年(1936年)2月17日、江戸時代の藩主の中でも長寿の83歳で死去した。戸田一西以来、代々の当主とともに大垣の常葉神社にて祭神として祀られている。婿養子の氏秀(大河内輝声の四男)は早世したため、氏秀の子の氏忠が家督を継いだ。


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