平山洋

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テンプレート:Infobox 作家 平山 洋(ひらやま よう、1961年(昭和36年)9月 - )は、日本思想史研究者。専門は近代思想史。現在、静岡県立大学国際関係学部国際言語文化学科助教、武蔵大学人文学部非常勤講師。神奈川県藤沢市出身。

経歴

水産学者の家に生まれ、1980年(昭和55年)神奈川県立湘南高等学校卒業。1986年(昭和61年)慶應義塾大学文学部哲学倫理学専攻卒業、1992年(平成4年)東北大学大学院文学研究科博士課程修了(日本思想史学専攻)。1992年(平成4年)以来静岡県立大学国際関係学部助手1995年(平成7年)東北大学より博士(文学)。1996年(平成8年)ハーバード大学ライシャワー日本学研究所客員研究員。

近代日本の思想を専門とし、当初は明治中期の批判主義哲学者でジャーナリスト大西祝(おおにし はじめ)の研究をしていた。大学院博士課程で哲学者西田幾多郎を研究対象とし、1995年(平成7年)に「西田「前期」哲学の研究」で博士号を取得した。福澤諭吉については、慶應義塾大学で小泉仰(こいずみ たかし)教授の下で指導を受けていたが、本格的な研究を開始したのは1996年(平成8年)からである。

安川・平山論争

テンプレート:Main 2001年(平成13年)4月21日朝日新聞に掲載された安川寿之輔名古屋大学名誉教授の論説「福沢諭吉 アジア蔑視広めた思想家」に、反論「福沢諭吉 アジアを蔑視していたか」(5月12日付同紙)を掲載したことで、「安川・平山論争」が始まった[1]

5月21日に安川は慶應義塾大学で講演をおこない、講演資料で「福沢論争 批判は事実に基づいて」という再反論を掲載した。この資料に対して、5月30日に平山は再々反論を行った。さらに、5月30日から6月26日の間に、安川と平山との間で往復で3回の意見交換が書簡で行われた[2]

『福沢諭吉の真実』の出版

その後2003年(平成15年)4月までに『福沢諭吉の真実』の原型を完成させた。この原型は、元慶應義塾福沢研究センター所長の西川俊作名誉教授の推薦により、出版の日の目を見ることになった。この原型は新書で出版するためにページ数を3分の2にまで減らしたため、無署名論説(社説)の起筆者の推定に関する部分は割愛されることになり、2004年(平成16年)8月20日に出版されることになった。

この本は、今までの研究のすべてが依拠していた岩波書店刊行の『福沢諭吉全集』(1964年(昭和39年)完結)の編纂が、そもそもでたらめであるという認識を出発点としている。すなわち平山によれば、現在の福沢像とは、全集編纂者にして『福沢諭吉伝』(1932年(昭和7年))の作者でもあった弟子の石河幹明(いしかわ みきあき)が、自分で執筆した新聞『時事新報』の無署名論説(社説)を、『福沢全集』(1926年(大正15年)完結)と『続福沢全集』(1934年(昭和9年)完結)に収めたことで虚構された「アジア蔑視者にして朝鮮領有や中国分割を目論んだ思想家」福沢諭吉なのである。

第2次世界大戦後の福沢批判者が依拠している、侵略的絶対主義者福沢諭吉とは、実は石河幹明自身のことにすぎない、と平山は主張する。平山の主張によれば、現行版『福沢諭吉全集』に収録されている『時事新報』掲載の無署名論説でアジア蔑視表現を含むものは、すべて石河が執筆したものであり、そこに福沢は関与していなかったことになる。しかし、平山は「『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の逐語的註」において、「関係がある証明は可能だが、無関与の証明などできないのである」と説明している[3]ように、石河が関与したことは文章に含まれる語彙や言い回しなどの特徴で証明することは可能だが、そこに福沢が関与していなかったことを証明するのは難しいと考えられる。

著作

詳細は平山洋研究業績一覧を参照。

単著

共編訳書

論文

平山の公式サイトで全文が公開されているものを挙げる。

論説

平山の公式サイトで全文が公開されているものを挙げる。

脚注

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外部リンク

インタビュー

テンプレート:Normdaten
  1. 平山 2004, p.240
  2. 平山 2004, p.241
  3. 『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』の逐語的註