常在寺 (豊島区)

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テンプレート:日本の寺院

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江戸時代の下谷付近(台東区)
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現在のの下谷付近(台東区)
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木造の頃の常在寺(昭和35年頃)
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昭和32年改築された旧常在寺本堂(日淳上人御親修にて御会式が奉修された)
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昭和32年改築された旧常在寺御宝前

常在寺(じょうざいじ)は、東京都豊島区池袋に所在する日蓮正宗寺院。山号は霊鷲山(りょうじゅせん)。

起源と歴史

  • 1605年慶長10年) - 東京上野に細井治良左衛門の寄進により「常在院」として開かれる。開基は日蓮正宗総本山大石寺第16世日就上人。
  • 1619年元和5年) - 寛永寺の建立のため、幕命により下谷に移転。
  • 1624年寛永1年) - 霊鷲山常在寺と改称。
  • 1638年(寛永15年) - 大石寺第17世日精上人が大石寺を隠居して常在寺に入り伽藍を再興す。
  • 1918年大正7年)4月28日 - 雑司が谷の旧三越の辺りに移転。
  • 戦後 空襲で焼け野原となった後の区画整理で現在地に移転。
  • 1958年昭和33年)4月 - 常在寺の所属信徒であった戸田城聖創価学会第二代会長、法華講総講頭 )の葬儀が行われる。

<参考> 常在寺縁起によれば、「夫れ当寺起立の濫觴は、本山十六世常在院日就上人慶長十年頃、東叡山上草に庵を結び居住し給う処、百性細井治良左衛門と申す人、折節教戒を蒙り、本門下種の大法を信じ、帰依渇仰の思い日々弥よ増し、終に持ち分の屋敷を以って之れを寄附し、則ち是を常在院と号す。その後、元和五年己未、東叡山御用地に付き上野庵地を召し上げられ、今に下谷村に於て替え地を下し置かれ畢ぬ。此に於て元和の頃、一宇の精舎を営む也。而して寛永元年甲子本山より補任せられ院号を改め即ち霊鷲山常在寺と号す。時に日就上人一宇起立の功成る。病身に成り給う故、冨士に引籠し、当寺に留守居を置き給う。当寺の檀越僅か両三の輩、法燈立て難し。本山の合力を得て、寺役相勤むと雖も、追日、庫裏客殿大破に及び、之れに依って本山十八世日精上人深く此の事を悲しみ、当地に諸縁ある故、本山を退院し、当寺に閑居す。昼夜に本門の要法を弘通し、爰を以って道俗は袖を列ねて帰依し、渇仰の男女は歩みを運び、終に受法得道し、各檀越と成り畢ぬ。然れば則ち精師の高徳に依って、絶を興し、廃を補い給う。仏法日々に威光を増し、法燈夜々に冥暗を照らす。」とある。

所在地

特徴

  • 38代の住職のうち、大石寺16世日就上人、17世日精上人、24世日永上人、27世日養上人、32世日教上人、40世日任上人、41世日文上人、45世日礼上人、46世日調上人、48世日量上人、50世日誠上人、53世日盛上人、59世日亨上人、66世日達上人の14名が総本山大石寺の歴代法主上人として名を連ねており、宗門の要職に就いた歴代住職も多く、江戸時代から現在まで、大石寺の江戸(東京)における重要な拠点となってきた。現住職は38代・阿部信彰(宗務院布教部長)。
  • 江戸時代、下谷常在寺の近所に金沢藩江戸屋敷があり、江戸勤番の金沢藩士が日精上人より教化を受けた。このことを端緒として国元の金沢でも爆発的に大石寺信仰が広がったが、金沢藩内で大石寺信仰が認められることはなく、江戸時代末期まで金沢法難と呼ばれる大石寺信仰に対する禁圧が行われていた。
  • 大石寺中興の祖と仰がれる26世日寛上人(当時は伊藤市之進と称された)は、常在寺の日精上人より教化を受け、大石寺信仰に帰依し、渇仰の思いから出家を志し、日永上人を師匠として常在寺で、出家得度したと伝えられる。
  • 現在の本堂は建築家横山公男が設計したものである。

周辺

  • 南池袋公園
  • 南池袋郵便局

交通アクセス

関連項目

外部リンク