岩城親隆

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岩城 親隆(いわき ちかたか、1537年天文6年)? - 1594年文禄3年)?)は、戦国時代の武将。陸奥戦国大名伊達晴宗の長男[1] 。生母は岩城重隆の娘・久保姫伊達輝宗留守政景石川昭光国分盛重杉目直宗は同母弟、岩城常隆は息子。左京大夫。鶴千代丸。初名は宣隆。伊達政宗(輝宗の子)の伯父にあたる。

生涯

伊達晴宗の長男だが、1534年の合戦の際の晴宗と重隆との約束により、外祖父・岩城重隆の養嗣子となって岩城氏の家督継承者となる。養父の重隆の隠居後、当主に就任する。近隣の田村氏石川氏の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、基本的には養父重隆以来の外交重視の路線を踏襲しており、実家伊達氏において実父の晴宗と実弟の輝宗が対立すると仲裁し、また、二階堂氏の去就をめぐり対立する伊達氏蘆名氏との和睦をあっせんした記録も存在する。叔父である伊達実元に対し実父と実弟の関係を憂慮する内容の手紙を交換するなど、実家伊達氏との関係は重視していたようである。

佐竹氏は佐竹義昭の代より石川氏や白河結城氏の従属化をめざし陸奥に進出するようになり、かつては友好的であった岩城氏との関係も先代重隆の時代より徐々に悪化しつつあった。親隆は佐竹義昭の娘を妻に迎えていたにも関わらず関係は改善しなかった。1568年から1571年にかけて佐竹氏とたびたび軍事衝突を起こす最中、隠居の岩城重隆は病死し、親隆もまもなく動静が不明となる。その後は佐竹氏出身の親隆夫人が当主代行として振舞うようになり、佐竹義重(義昭の子)が岩城家の政治に介入するようになることから、この前後に岩城家家中に何らかの異変があったものと推測されている(親隆が病のため狂乱し、当主としての活動が不可能になったためともいわれる。)。

1578年頃には常隆が当主に就任し、親隆夫人がその後見役を務めた。親隆は記録上は1594年まで存命していたとある。

系譜

脚注

  1. 伊達稙宗の子としている系図(『永禄伊達系図写』(原本永禄3年(1560年))」/仙台市博物館蔵)もある。
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