二階堂盛義

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二階堂 盛義(にかいどう もりよし、天文13年(1544年)? - 天正9年8月26日1581年9月23日))は、戦国時代の武将で、須賀川二階堂氏の当主。二階堂照行(輝行)の嫡男。別名、行盛(ゆきもり、父と「行」の字が共通していることから初名の可能性が高い)。信濃守。

蘆名氏の当主である蘆名盛隆の実父。盛隆の他に二階堂行親行久(ゆきひさ)、行栄、岩城御前(岩城常隆後に伊達成実継室)などの子がいたとされる(行久と行栄については「須賀川市史」などで存在を指摘しているが不明な点も多い)。室は伊達晴宗の娘の阿南(おなみ)姫。

経歴

須賀川城を居城として岩瀬郡福島県)を支配していた。

永禄年間(1558年~1570年)になると会津四郡(耶麻郡河沼郡大沼郡会津郡)を支配する蘆名氏、田村郡を支配する田村氏と所領をめぐって度々戦いを繰り広げたが、永禄9年(1566年)2月蘆名盛氏・盛興父子が松山・横田両城を攻め落として横田城主を生け捕りにすると、盛義は嫡男(のちの盛隆)を人質として差し出すことで盛氏と和睦した。それ以後は蘆名氏の旗下に入った。

天正2年(1574年)6月、盛氏の嫡男蘆名盛興が早世したため、人質であった盛隆が盛氏の後継者として蘆名氏を継いだ。二階堂氏も蘆名氏の力を背景にして田村氏との戦いに勝利し、勢力を拡大した。 しかし盛義が天正9年(1581年)8月に亡くなり(38歳だったとも言われる)、盛隆も天正12年(1584年)10月に暗殺されると、再び二階堂氏は衰退して天正17年(1589年)10月26日に伊達政宗によって滅ぼされた。

系譜

信長の野望とインターネット上での反応

戦国時代を題材にしたコーエーのシミュレーションゲーム『信長の野望・蒼天録』では、二階堂盛義が武将として登場する。ゲーム中では登場武将全員に個別の顔グラフィックがつくが、盛義の顔画像は「目が異常に釣り上がり、口を大きく開け、まるで発狂している」ようであった。

国内大手の掲示板群2ちゃんねるではこの話題を大きく取り上げ、同じく顔グラフィックに特徴のあった隈部親永と共に掲示板内で人気を博した。盛義自身には肖像画も残っていないため、何故個性的な顔グラフィックになったのかは不明である。コーエーは『太閤立志伝V』でも同じ顔グラフィックを採用している。