山本寛斎

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テンプレート:Infobox 芸術家 山本 寛斎(やまもと かんさい、本名の読み:やまもと のぶよし、1944年昭和19年)2月8日 - )は、日本ファッションデザイナーイベントプロデューサーである。寛斎スーパースタジオ会長。太田プロダクション所属。通名で、やまもと寛斎と表記することもある。

人物

神奈川県横浜市生まれ。岐阜県岐阜市出身。岐阜県立岐阜工業高等学校を経て、日本大学文理学部英文科中退。

1971年(昭和46年)に、日本人として初めて、ロンドンでファッション・ショーを開催したことでも知られる。[1]

経歴

幼少期に横浜で両親が離婚、3人兄弟で伯父を頼り高知県に移るが補導され、児童相談所に収容されたが脱走した。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。この間、高知や大阪などで10数回の転校を繰り返す。父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。そのうちに中学の友人から制服の改造を頼まれ、中学生にしてミシンを踏むようになり[2]、のちにお針子を目指すようになった。[1]そのきっかけとなったのが、映画「太陽がいっぱい」のファッションセンスに惹かれたからであった。[1]また、応援団長となり、さまざまな応援の振り付けを考えるようになった。[2]

高校へ通う折、建築科に通いたかったもののその学校にはなく、建築科と課程が同じだろうと思って土木建築科に通った。[1]実際に通ってみると、建築の基礎となる土木工事に関するものが中心とする課程で、かつ現場では賄いのおばさんしかいなかったので、挫折する経験をした。[1]

ある時、電信棒に貼ってあった第2回日本アマチュアシャンソンコンクールのポスターを見て、これに応募。[1]オクターブ違いの「愛の讃歌」で出場するも結果は鐘一つだった。[1][3]この時の優勝者が加藤登紀子で、のちに所属事務所との縁で彼女と一緒に仕事することになり、「あの時寛斎さんが受からなくてよかったね。だから今、私たちの舞台に来て、挨拶ができるようになりました。」と感謝されており、以後親しい友人となっている。[1]

コシノジュンコ、細野久などのデザイナーの下で働いた後、1971年(昭和46年)に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。1973年(昭和48年)には、デビッド・ボウイのステージ衣装も手がけ、1975年(昭和50年)にはパリで既製服のコレクションを発表した。

また、山本は2010年平成22年)に開業した日本の京成電鉄成田スカイアクセス新AE形の車輌デザインを担当したが、車体色の選定は候補の7色を直接車両に塗って行ったという[4]

家族

主なデザイン作品

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著書

  • 「熱き心 寛斎の熱血語10ヵ条」(PHP新書、2008年
  • 「死にゃしない! OK!!」(日本実業出版社、2004年
  • 「山本寛斎 ハロー・自己表現―別冊課外授業ようこそ先輩」(KTC中央出版、2000年
  • 「寛斎 鉄丸全行動―未来へ向けて」(筑摩書房、1987年
  • 「寛斎完全燃焼」(新潮社、1983年
  • 「スーパーファッション」(講談社、1974年

パフォーミング・アート

山本寛斎は「KANSAI SUPER SHOW」という名称で、ファッション、音楽、舞台芸術を混合したパフォーミング・アートのイベントを開催している。

テレビ

映画

CM・広告活動等

特記事項

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:太田プロダクション
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 渋谷LIVE! ザ・プライムショー」、2013年3月13日放送、WOWOW制作
  2. 2.0 2.1 2010年1月4日朝日新聞テンプレート:要ページ番号
  3. 当該コンクールでの優勝の副賞がパリ行きのチケットで、その当時の寛斎は芸術の街であるパリに憧れており、棚ぼたで優勝できるかもしれないと思っていた。そのため、何の心得もなく出場しており、選曲とキーをピアニストに一任していた。出典:「渋谷LIVE! ザ・プライムショー」、2013年3月13日放送、WOWOW制作
  4. テンプレート:要出典範囲より
  5. テンプレート:Cite news