山崎家治

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テンプレート:基礎情報 武士 山崎 家治(やまざき いえはる)は、江戸時代前期の大名因幡若桜藩第2代藩主、備中成羽藩主、肥後富岡藩主、讃岐丸亀藩初代藩主。

生涯

文禄3年(1594年)、山崎家盛の長男として生まれる。正室・天球院池田恒興の娘)の子ではなく側室の子であったという。

慶長19年(1614年)10月、父の死去により跡を継いだ。同年末の大坂冬の陣では中之島に陣を布いた。このとき、弟の久家が戦死している。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では池田利隆隊に属して戦い、首級を6個挙げる活躍をした。

元和3年(1617年)、大坂の陣の戦功により因幡若桜3万石から備中成羽3万5,000石に加増転封された。成羽時代には連島新田開発などに尽力した。また元和5年(1619年)の福島正則改易時には備後国三原城を守衛した。築城の名手であったといわれ、翌元和6年(1620年)の大坂城築城工事において、天主・本丸・二の丸の石垣構築に携わり才能を遺憾なく発揮している。なお、この築城工事で出た廃石を中之島の基礎として再利用している。そのため中之島には山崎家の大坂屋敷が存在していた。

家治は松平信綱をはじめとする幕閣から信任を得て、島原の乱後の寛永16年(1639年)、肥後天草(富岡)4万石に加増転封された。乱後の天草は領内の2~3割が荒れ地というほどに荒廃していたが、家治は富岡城の再建、離散した領民の呼び戻し、新田開発など復興に着手した。

出世

これらの功績により寛永18年(1641年)9月、讃岐西半分を治める讃岐丸亀5万3,000石丸亀藩)に大幅加増転封された。

入国当時は寺院を宿所としていたが、翌寛永20年(1642年)には廃城となっていた丸亀城に新城造営を計画し許され、幕府より白銀300貫を賜り、かつ参勤交代を免除された。

丸亀でも築城経験を生かして丸亀城の築城を開始する一方、城下町の経営・整備を行ない、今日の丸亀の基礎を築いた。しかし丸亀城を凝った造りにしたこともあり、慶安元年(1648年)3月17日、その完成を見届けることなく55歳で死去した。丸亀城の築城工事は山崎家が丸亀を去った後、京極高和まで引き継がれ、万治3年(1660年)にようやく完成した。

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