山城屋和助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

山城屋 和助(やましろや わすけ、天保7年(1836年) - 明治5年11月29日1872年12月29日))は奇兵隊隊士。のち陸軍省御用商人。

略歴

本名は野村三千三(のむら みちぞう)。周防国玖珂郡山代荘本郷村に、医師野村信高右の四男として生まれる。幼少時に両親と死別し、親戚により寺に預けられ、僧侶となる。文久3年(1863年)に還俗し、高杉晋作が創設した奇兵隊に入隊する。山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦し、越後口では御陵衛士残党の篠原泰之進高鍋藩兵と共に戦った。

明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政にたずさわるようになった山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜に店舗を構えた。長州人脈を活かし、軍需品納入の商売は繁盛した。明治5年(1872年)、彼は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている[1]しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗。山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。ところが商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(山城屋事件)。

当時、陸軍省では、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、借りた公金を返済する能力が無い事が明らかになっただけであった。山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。窮地に立たされた山城屋は、同年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。

山城屋の自殺により、山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。

ただし、山縣有朋が明治6年3月付で、在パリの鮫島弁理公使に書いた書簡には、「(和助は)帰国後商法種々手違之故をもって旧臘(昨年の和暦12月)自刃におよび相果て、自首致候手代とも即今裁判所にて取糺中にこれあり」とあって、死後も司法省によって事件が追及されていたことがわかる[2]

日本に初めて西欧式の牛革製のを紹介した人物とされる[3]

墓所は、横浜市久保山墓地東京都杉並区浄土宗松苔山峯巌院西方寺墓地の2ヶ所にあり、少なくとも昭和17年まで、両墓ともゆかりの人々によって篤く弔われ、神奈川県防長郷友会が発行した「山城屋和助」にはその法要の写真が載せられている[4]

補注

  1. 毛利敏彦『明治六年政変』67ページ
  2. 三宅守常著「山田顕義と教育-続-在フランス山田顕義の1通の手紙をめぐって」(日本大学精神文化研究所紀要 20 p99〜125 )
  3. 豊岡かばんEXPO、日本の鞄の歴史
  4. 霞信彦著『矩を踰えて―明治法制史断章 』慶應義塾大学出版会 (2007/11/1) ISBN 978-4766414431 p166-171「山城屋和助 夢の跡」

参考文献

  • 岡義武『山県有朋―明治日本の象徴―』岩波新書 1958年
  • 藤村道生『山縣有朋』吉川弘文館 1961年
  • 井上清『日本の歴史 20 明治維新』中央公論社1966年
  • 毛利敏彦『明治六年政変』中公新書1979年

関連項目