小野寺義道

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小野寺 義道(おのでら よしみち、1566年8月19日永禄9年8月5日)- 1646年1月8日正保2年11月22日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名出羽国横手城主。小野寺景道(輝道?)の次男。子に小野寺保道

経歴

兄で嫡男であった光道が戦死したため、父から家督を譲られる。武勇には優れていたが知略に乏しく、1581年には、支配下にあった鮭延秀綱が離反。同じく影響下にあった由利十二頭の人質の一部が自害した事などから領内に一揆を招いたり、楯岡満茂の謀略によって家臣を誅殺するなど、次第にその勢力を減退させ、最上義光戸沢盛安との戦いで雄勝郡平鹿郡などの所領を失った。

天正18年(1590年)には小田原征伐に参陣し、豊臣秀吉に謁見して、所領を安堵された。 だが、その後の奥州仕置において幾つもの不手際によって仙北一揆が起こったのを咎められ、天正19年(1591年)所領の3分の1が没収され、上浦郡に3万1600石を給された。 没収された雄勝郡は最上義光の領土とされたが、義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続した。 文禄元年(1592年)、文禄の役においては肥前国名護屋に参陣し、その功績から叙位・任官した。

文禄4年(1595年)、最上義光の謀略によって家臣八柏道為を誅殺。 その後、最上義光は雄勝郡を支配するため楯岡城楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。 湯沢城が落城した事を聞いた岩崎城岩崎義高は義道に援軍を要請したが、同日に今泉城角間城鍋倉城植田城新田目城が最上軍の攻撃にあったため岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍が来なかった。 その後、前森城原田大膳岩崎城に夜襲をかけて落城した。

1600年関ヶ原の戦いでは最初は東軍に与したが、後に上杉景勝と通じて西軍に寝返ったため、戦後の1601年徳川家康によって改易され、弟・康道とともに石見国津和野に追放された。1645年、同地で80歳で死去している。

以上のように中央の政争に振り回され、家の存続には失敗した人物ではあったが、その一方で人情味もあったようで、幽閉の身の自分を温かく遇してくれた津和野藩主坂崎直盛が謀叛の疑いで自害に追い込まれると、秘かにその墓を建立したと言われている。

その後小野寺氏は、坂崎氏の後を受けた津和野藩主・亀井氏の重臣となって明治維新を迎えた。