小笠原忠幹

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小笠原 忠幹(おがさわら ただよし、文政10年9月14日1827年11月3日) - 慶応元年9月6日1865年10月25日))は、播磨安志藩第6代藩主、のち豊前小倉藩第9代藩主。忠脩系小笠原家11代、小笠原家宗家10代。播磨安志藩第5代藩主・小笠原長武の次男。正室は小倉藩主・小笠原忠固の養女(小倉藩主・小笠原忠徴の娘)、継室は三日市藩主・柳沢里顕の娘。子に貞孚(長男)、忠忱(次男)、娘(松平忠興継室)、娘(徳川篤守正室)。

幼名は鋭吉、豊松丸、初名は貞幹、棟幹。安志藩主時代は貞幹(さだよし)と名乗った。官位は従四位下大膳大夫、侍従従五位下、信濃守。

生涯

天保10年(1839年)12月14日、実父・長武の死去により、家督を相続し、播磨安志藩主となった。天保13年10月15日、将軍・徳川家慶に拝謁する。同年11月1日、従五位下兵部少輔に叙任する。後に信濃守に改める。

万延元年(1860年)11月6日、本家の豊前小倉藩主・小笠原忠嘉の死去により、末期養子として家督を相続し、小倉藩主となった。それにともない、長男・貞孚が安志藩主になった。文久元年(1861年)12月16日、従四位下に昇進し、大膳大夫に改める。後に左京大夫に改める。文久3年、第14代将軍・徳川家茂が上洛したときは、その警護を務めている。元治元年(1864年)5月5日、侍従に任官し、左京大夫に改める。

慶応元年(1865年)、39歳で死去した。小倉藩は次男の忠忱が継いだが、忠忱が幼少のため、忠幹の喪は秘された。死去が公にされたのは、第2次長州征伐小倉城を自焼し、藩庁を田川郡香春に移した後の慶応3年(1867年)だった。

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