小日向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Pathnav テンプレート:Infobox Settlement 小日向(こひなた)は、東京都文京区町名[1]。現行行政地名は小日向一丁目から小日向四丁目。居住人口は7,109人(2011年2月1日現在、住民基本台帳人口による[2]。)。郵便番号は112-0006。

地理

小日向台という台地があり、坂が多い。坂には「切支丹坂」・「薬罐(やかん)坂」など江戸期からの名称がついている。閑静な住宅街。石川啄木安部公房横溝正史などの旧居があった。
旧・茗荷谷町付近はその地形の美しさから、「茗渓」(めいけい)という美称でも呼ばれていた。現在でも「茗渓」という名の会館などを目にする事が出来る。地元では「こなた」と「ひ」の濁音で発音されていることが多く、行政上の表記/発音「こひなた」については異論も多い。1965年前後の住居表示に伴う調査の際「濁音なし」を採用したが、他方、学校名や町会名などが古くからの「濁音あり」で呼ばれ/書かれ続けている[3][4]


地価

住宅地の地価は2014年平成26年)1月1日に公表された公示地価によれば小日向2-28-16の地点で58万3000円/m2となっている。

歴史

日頭郷

山岡浚明以来、平安時代の『和名類聚抄』所載の武蔵国豊島郡日頭(ひのと)郷を小日向と関連付ける説がある。

小日向氏

中世、江戸氏庶流に小日向氏が存在した。

応永27年(1420年)5月9日「江戸名字書立」(熊野那智大社米良文書)に「こひなたとの(小日向殿)」とある。『小田原衆所領役帳』には小日向の地名及び小日向弥三郎、小日向弾正の名が記載される。

江戸時代

江戸時代初期には農村で、代官野村彦太夫と町年寄三家樽屋藤左衛門奈良屋市右衛門喜多村彦右衛門支配、寛文12年(1672年)より代官支配となった。

明暦頃より市街化し、正徳3年(1713年)11ヶ町が町奉行支配に加わった。

  • 小日向五軒町 - 元禄11年(1698年)西丸表六尺根本角兵衛等5人の大縄拝領地となった。
  • 小日向三軒町 - 万治年間長兵衛等3人により成立。
  • 小日向清水谷町 - 弓矢鎗奉行同心14人の拝領地となった。
  • 小日向生智院前町
  • 小日向水道町 - 明暦2年(1656年)成立。
  • 小日向台町 - 小日向村鼠ヶ谷小松原に小日向新町として成立、元禄頃改称。
  • 小日向東古川町 - 寛永元年成立。
  • 小日向西古川町 - 寛文元年成立。
  • 小日向八幡坂町
  • 小日向松ヶ枝町 - 寛永3年成立。
  • 小日向茗荷谷町

その後以下の門前町が成立した。

  • 小日向第六天前町 - 承応以前に成立。
  • 小日向清岸寺門前 - 寺名は清巌寺
  • 小日向智願寺門前
  • 小日向清光院門前
  • 小日向竜興寺門前
  • 小日向林泉寺門前
  • 小日向金剛寺門前
  • 小日向川添屋敷

明治時代

明治初年、以下の町丁に整理された。

  • 小日向台町 - 明治2年小日向五軒町、小日向八幡坂町、明治5年賄組屋敷を合併。明治14年一~三丁目に分割。
  • 小日向三軒町 - 明治2年小日向正智院前町を合併するも再分離、明治4年小日向西三軒町と改称、明治5年小石川薬園屋敷、武家地を合併。
  • 小日向水道町 - 明治2年小日向川添屋敷、小日向智願寺門前、小日向清光院門前、小日向竜興寺門前、明治5年下総関宿藩久世家屋敷、寺地を合併。
  • 小日向水道端一、二丁目 - 明治5年持筒組屋敷、武家地、寺地が合併して成立。
  • 小日向武島町 - 明治5年武家地に成立。
  • 小日向町 - 明治5年武家地に成立。
  • 小日向東古川町
  • 小日向西古川町
  • 小日向第六天町 - 小日向第六天前町、小石川称名寺門前、相模荻野山中藩大久保家下屋敷、先手組屋敷が合併して成立。
  • 小日向松ヶ枝町 - 明治5年武家地を合併。
  • 小日向茗荷谷町 - 明治2年小日向林泉寺門前、明治5年武家地、寺地を合併。

明治11年に小石川区を属する。明治44年、小日向町、小日向台町、小日向水道町以外は小日向の冠称を外された。

住居表示

昭和41年(1966年)の住居表示により、旧来の小日向地域は小日向水道春日音羽関口の各一部となった。小日向一~四丁目は、茗荷谷町、小日向台町一、二丁目、清水谷町、三軒町の全部と、小日向台町三丁目、水道端二丁目、第六天町、小日向水道町、桜木町、音羽町五丁目、同心町、竹早町の各一部に成立した。

この時、区は読みから濁点を外し「こひなた」としたため、後に住民と軋轢を生んだ。

地名の由来

江戸砂子』によれば、当地は鶴高日向守善仁寺の所領で、家が絶えたあと、「古日向」といっていたのがいつしかこの名になったという。鶴高日向は名主飯塚三四郎家の遠祖といい、小日向水道端鶴高山善仁寺の開基とされる。また、『十方庵遊歴雑記』は、大塚大慈寺(現在廃寺)が昔日向国にあり、徳川家康に従い当地に移転し、火災後大塚に移転したと伝わることから、この意味の「古日向」の可能性もあるとする。いずれにせよ「ひゅうが」と「ひなた」で読みが一致しないので、『御府内備考』以下後の考証家からは否定されている。

大日本地名辞書』は、神奈川県日向山、青梅市日向和田・日陰和田と同様に向陽の意とした。

交通

鉄道

施設

参考資料

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:文京区の町名テンプレート:Japan-block-stub

テンプレート:Pref-stub
  1. 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1991年再版、PP989-990
  2. 文京区役所区民課調査統計係"文京区 町丁別 世帯数・人口23年2月"2011年2月10日更新.(2011年3月6日閲覧。)
  3. 「文京区議会 総務区民委員会会議録(平成14年12月3日)」(2002年12月3日)
  4. 「文京区議会 決算審査特別委員会会議録(平成14年10月7日)」(2002年10月7日)