宇都宮貞綱

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宇都宮 貞綱(うつのみや さだつな)は鎌倉時代中・後期の武将鎌倉幕府御家人宇都宮氏第八代当主。宇都宮景綱の子[1]。母は安達義景の娘[1]興禅寺を開基したことで知られる。北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時偏諱を受けて[2]貞綱と名乗る。

弘安4年(1281年)の元寇弘安の役では8代執権・北条時宗の命を受けて山陽山陰の6万もの御家人を率いて総大将として九州に出陣した[1]その功績により戦後、引付衆の一人に任じられた[1]

時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305年)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した[1]

正和元年(1312年)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。

正和5年(1316年)7月25日、51歳にて死去した[1]。法名は蓮昇[1]、法号は興禅寺。

脚注

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参考文献


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  2. 得宗専制が確立する北条貞時・高時の代には得宗家当主から一般の御家人へ偏諱(「貞」または「高」の字)を授与する図式が成立していたことが近年の研究によって指摘されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年、p.21))、貞綱・高綱(公綱)父子もその名乗りからこれに該当していたことが窺える。貞綱の元服の時期は明確には判明していないものの、貞時が得宗家当主であった1284年-1311年の間であったとみられる。但し、それ以前の時宗の代から活動が見られることから、それ以前に得宗家嫡子として貞時が烏帽子親となった可能性もある。得宗家の嫡子が家督相続前に烏帽子親となる事例は北条顕時などに見られ、それは父である得宗家当主(貞時の場合は時宗)の指名を受けたケースとする見解が出されている(山野龍太郎「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」(所収:山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』(思文閣出版、2012年)、p.167~168))。宇都宮氏の例は示されていないが同様の例が、紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治 性について」(『中央史学』二、1979年)にて言及されている。