宇都宮公綱

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テンプレート:基礎情報 武士 宇都宮 公綱(うつのみや きんつな、乾元元年(1302年) - 正平11年/延文元年11月25日1356年12月17日))は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将宇都宮氏第九代当主。父は宇都宮貞綱。母は北条長時の娘。子に宇都宮氏綱。名将・楠木正成坂東一の弓取りと評され恐れられるほどの武勇を誇ったといわれている。

楠木正成との戦いは、宇都宮氏を中心とした東国武士の武勇を示すものとして名高い。

生涯

乾元元年(1302年)、宇都宮貞綱の子として生まれる。初めは北条氏得宗家当主・北条高時偏諱を受けて[1]宇都宮高綱(たかつな)を名乗っていた[2]とされる。

元弘の乱1333年1月、北条高時の命を受けて上洛し、紀清両党を率いて摂津国四天王寺にて官軍側の名将・楠木正成と戦った。このとき、正成は公綱より兵力では勝っていたが、公綱の武略を恐れて直接対決を挑もうとはせず、持久戦に持ち込んでいる。公綱もまた、正成の武略を恐れて直接には相対せず、結局勝敗はつかずして引き分けた。正成は四天王寺で対峙した際に宇都宮氏が坂東一の弓取りであること、そして紀清両党の強さを「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」と評している。その後、千早城攻めなどにも参戦し、活躍したが、六波羅探題滅亡後、後醍醐天皇の綸旨を受け、官軍側に降伏し、包囲軍瓦解のきっかけとなった。幕府滅亡後の建武の新政下では雑訴決断所奉行職を務めた。1335年中先代の乱後に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦ったが敗れ(竹ノ下の戦い)、翌年に尊氏に降伏してその家臣となった。しかし尊氏が九州に落ちると再び天皇のもとに帰参する。

その後は北畠顕家のもとで各地を転戦し、顕家の死後も東国における南朝側の中心勢力の一人として活躍し、後村上天皇からも厚い信任を受けた。しかし晩年は不遇だったと言われている。正平11年/延文元年(1356年)11月25日、55歳で死去した。

正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能を発揮し、『新続古今和歌集』には公綱の作品が修められている。

脚注

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テンプレート:下野宇都宮氏歴代当主
  1. 得宗専制が確立する北条貞時・高時の代には得宗家当主から一般の御家人へ偏諱(「貞」または「高」の字)を授与する図式が成立していたことが近年の研究によって指摘されており(角田朋彦 「偏諱の話」(『段かづら』三・四、2004年、p.21))、貞綱・高綱(公綱)父子もその名乗りからこれに該当していたことが窺える。高綱の元服の時期は明確には判明していないものの、生誕年から算出するに、高時が得宗家当主であった1311年-1333年の間であったことは確実で、その高時と烏帽子親子関係を結んでいたとみなすことができる。のちに「公綱」に改名したのも、足利尊氏(高氏)・足利直義(高国)・小田治久(高知)・小山秀朝(高朝)・長井挙冬(高冬)と同じく「高」の字を棄てた事例の1つと考えられる。宇都宮氏の例は示されていないが同様の例が、紺戸淳 「武家社会における加冠と一字付与の政治 性について」(『中央史学』二、1979年)にて言及されている。
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