太田氏房

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テンプレート:基礎情報 武士 太田 氏房/北条 氏房(おおた うじふさ/ほうじょう うじふさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。北条氏政の3男。武蔵岩付城主。太田源五郎と同一人物と考えられてきたが、現在では別人とされる。生母は武田信玄の娘の黄梅院で、北条氏直の同母弟。

生涯

岩付城主・太田氏資が永禄10年(1567年)に戦死したため、その娘を娶って太田氏の家督を継ぎ、太田氏房と称したと一般的にいわれている。しかし、氏資の娘は氏房の兄の源五郎(あるいは東国丸)に嫁いだとされ、氏房と氏資の娘の婚儀が行われたのは天正13年(1585年)とする文書も存在しており、天正10年(1582年)に死去したとされる源五郎の後継者としてその未亡人である氏資の娘と婚姻を行った可能性もある。更に太田姓を称したかも定かではない[1]

天正8年(1580年)12月、父・氏政、兄・氏直・同源五郎と並んで菊王丸の名で、相模大井宮に料足を寄進しているのが史料上の初見。翌年7月から岩付領支配のための文書を出している。ただし、岩付衆への軍事指揮権や領内裁判権は隠居の氏政が掌握しており、氏房の全権支配が始まるのは天正13年(1585年)7月の婚姻以後の事である。天正15年(1587年)、氏房が松浦氏を奉行人とし、与野郷周辺の堤防築造を人足百人宛5日の日限で命じた古文書が指定有形文化財として現存している。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐では居城の岩槻城は家臣に守らせ、自分は小田原城に籠城した。包囲中、氏房は蒲生勢に夜襲をかけるなど北条側唯一といえる攻勢に出ている。ちなみに岩槻城は、小田原城開城に先立って5月20日に陥落した。

北条氏滅亡後、兄・氏直と共に高野山で蟄居した。その後、寺沢広高預かり[2]となって肥前に移され、そこで天正20年(1592年)4月12日に病死した[3]。享年28。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
  • 黒田基樹『戦国北条一族』SBN 440403251X C0021
  • 『歴史群像シリーズ14 新説北条五代 早雲と一族、百年の興亡』1989年、学習研究社)
  • 『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年、ISBN 4490106963
  • 黒田基樹『戦国北条氏五代』 戎光祥出版、2012年。
史料
  • 『伝心庵過去帳』
  • 太田姓を名乗ったとされるのは軍記物のみで、本人は北条姓を名乗り、他者からは「岩槻殿」と呼ばれている事が朱印状等から明らかになっている
  • 寺沢広高預かりとなったという確たる資料はない。おそらく文禄の役に際して、肥前名護屋へ出陣、同地で没した事からの推測と思われる
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