天理軽便鉄道

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天理軽便鉄道(てんりけいべんてつどう)は奈良県生駒郡法隆寺村興留(国鉄法隆寺駅前)から山辺郡丹波市町川原城(天理市)を結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。天理教信者の旅客輸送を目的として建設されたが大阪電気軌道の路線延長に伴い買収され、現在路線の一部は、近畿日本鉄道天理線となっている。

路線データ

  • 路線距離:9.0km
  • 軌間:762mm[1]
  • 複線区間:なし(全線単線)
  • 電化区間:なし(全線非電化)
  • 動力:蒸気

歴史

1911年の春から天理教ではのちに大正普請とよばれた本部神殿や教祖殿などの建築がはじまり、信者達はその勤労作業のため天理教本部に向かうようになった。その行程は大阪湊町から奈良駅経由で丹波市駅(天理駅)まで2時間30分前後、運賃は51銭を必要としていた。そのため途中の法隆寺駅で下車して徒歩で天理教本部に向かう人も多かったという[2]

このような天理教の信者の旅客輸送を見込み、杉本久三郎他9名[3]の発起による法隆寺駅前から山辺郡丹波市町川原城(天理市)にいたる[4]軽便鉄道の敷設免許が1912年1月4日に下付された。そして11月27日に創立総会が開かれ、天理軽便鉄道株式会社(資本金25万円)が設立され、社長には戸尾善右衛門、専務には杉本が就任した[5]。工事は1913年12月法隆寺側よりはじめられ、土地の売却に反対の地主に対し土地収用審査会へ申立するなど遅れはあったが、それも解決した。地形はおおむね平坦で富雄川佐保川の架橋なども順調に工事が進み1915年1月13日に竣工し、そして2月7日より運輸営業を開始した。

開業時の成績であるが、1日平均旅客数は4.5月が467人、6月188人と目標[6]を大きく下回ってしまった。その後旅客数は徐々に増加はしてきたが小鉄道のため発展の余地は限られており、また新法隆寺駅の乗車人員と降車人員に大きな差から見られる[7]ことから、往路は天理軽便鉄道を利用し、復路は丹波市駅[8]より奈良まで行き、乗換して関西本線で大阪湊町にいくか1914年4月に開通した大阪電気軌道[9]により大阪上本町にいったようである。1916年に社長の戸尾は退任し、軽便鉄道補助法に基づく政府補助金を受けながら営業を続けていた。

こうしたところ大阪電気軌道は西大寺駅(後の大和西大寺駅)から南進して橿原神宮に至る、畝傍線(うねびせん)(近鉄橿原線)の計画を立てた[10]。その路線は天理軽便鉄道の中間部を横断する形になり経営に多大な影響を及ぼすことになる。そんなことから大阪電気軌道に対し認可の条件として天理軽便鉄道に対する補償または買収を義務づけられていた[11]。こうして両者の間で交渉[12]が続けられ1920年10月2日に買収金額は132,000円、従業員は大阪電気軌道が引き継ぐこととして譲渡契約が結ばれた。そして10月29日の臨時株主総会で付議し可決された。譲渡申請は12月6日認可され、1921年1月1日より大阪電気軌道天理鉄道線となり、開業後6年に満たず天理軽便鉄道は解散した。

輸送・収支実績

年度 輸送人員(人) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) 政府補助金(円)
1915(大正4)年 121,194 11,995 14,315 ▲2,320 5,991
1916(大正5)年 199,154 16,863 19,824 ▲2,961 10,919
1917(大正6)年 260,565 23,973 20,126 3,847 7,597
1918(大正7)年 304,975 25,393 31,054 ▲5,695 12,101
1919(大正8)年 306,794 29,799 31,885 ▲2,086 10,545
1920(大正9)年 402,563 54,021 51,837 2,184 5,670

1915年度は鉄道院年報、1916-1919年度は鉄道院鉄道統計資料、1920年度は鉄道省鉄道統計資料より

車両

蒸気機関車3両、客車10両、貨車10両(有蓋車5両、無蓋車5両)

運行状況

所要時間34分。約1時間おきに一日13往復が運転され、繁忙期には15往復に増便された。 時刻は国鉄法隆寺駅での接続を基準に設定されていたので、開業時には新法隆寺駅発23時台の列車があった。

天理には大阪湊町から法隆寺での乗換を含めても1時間40分ないし2時間で到着できた。

駅一覧

開業時 : 新法隆寺駅 - 額田部駅 - 二階堂駅 - 前栽駅 - 天理駅

1916年3月10日、新法隆寺駅 - 額田部駅間に安堵駅が新設された。
新法隆寺駅に機関庫があり、二階堂駅で上下列車が列車交換していた。

脚注

  1. 起業目論見書では国鉄と同じ1067mmだった
  2. 『近鉄線各駅停車 2 京都・橿原線』138 - 139頁
  3. 電気王とよばれた大阪の才賀藤吉の名もみられたが役員にはならなかった
  4. 奈良へ迂回するより約8哩(約13km)短かった。
  5. 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  6. 起業目論見書では天理教の信者540余万人、参拝者は年間50万人を下らないとして、1日平均旅客数を1614人と算定し、年間の収入を41,660円、営業費を17,625円差引24,035円を純益金としていた。
  7. 新法隆寺駅の大正6年度の乗車人員77,744人、降車人員49,203人
  8. 丹波市駅と天理駅は100mほどはなれており、天理教本部は丹波市駅の方が近かった。
  9. この開通により天理軽便鉄道は大阪からの時間や運賃の優位性は失われてしまった
  10. 1917年11月20日出願1918年11月19日特許
  11. 「大軌新線附帯条件」1918年12月7日付大阪新報 (神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  12. 大軌としては天理軽便鉄道との交差地点で新設路線がオーバークロスしなければならないため、その建設費の節約という思惑もあったようである。

参考文献

  • 『近畿日本鉄道 100年のあゆみ』近畿日本鉄道、2010年、87、121 - 122頁(担当執筆は三木理史)
  • 「天理軽便鉄道」『鉄道史料』No.39
「天理軽便鉄道株式会社起業目論見書」が掲載
  • 安彦勘吾「奈良盆地内の東西線建設--天理軽便と大和鉄道」『奈良学研究』No.3、2000年
  • 武部宏明「70周年を迎えた近鉄天理線 開業当時の天理軽便鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.455 1985年11月号
  • 徳永慶太郎『近鉄線各駅停車 2 京都・橿原線』カラーブックス659、保育社、1984年、138 - 139頁
  • 松藤貞人『奈良県の軽便鉄道-走りつづけた小さな主役たち-増補版』やまと崑崙企画、2004年、10 - 23頁