天文の乱

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テンプレート:統合文字 天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11年から17年までの6年間(1542年1548年)、伊達氏当主・伊達稙宗嫡男晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも呼ぶ。

背景

永正11年(1514年)に伊達氏第14代当主となった稙宗は、多くの子女を近隣諸侯の下に送り込むことで勢力を拡張し、家督相続からの30年間で10郡を支配下に収め、陸奥守護職を獲得し、天文年間初頭には最上相馬蘆名大崎葛西ら南奥羽の諸大名を従属させるに至った[1]。奥羽に一大勢力圏を築き上げた稙宗は、一挙に拡大した伊達家中の統制を図るべく『蔵方乃掟』・『棟役日記』・『塵芥集』・『段銭古帳』などの分国法・台帳を次々と作成して集権化を推し進めていった。また伊達傘下に入った諸侯に対しての宥和政策として、特に稙宗に協力的であった婿の相馬顕胤に伊達領の一部を分与しようとしたが、この案に稙宗の長男・晴宗が猛反発する。

これに加えて、さらなる勢力拡大を目論んだ稙宗が、三男・時宗丸(後の伊達実元)を越後守護・上杉定実の養子として送る案を示したことで、父子間の対立は決定的なものとなる。天文9年(1540年)には越後においてこの案に反対する揚北衆本庄房長らが挙兵して紛争へと発展しており、稙宗はこれら反対派に対抗するため、越後に入国する時宗丸に家臣100名を選りすぐって随行させることにした。強兵を引き抜かれることで伊達氏が弱体化することを恐れた晴宗は、中野宗時牧野宗興桑折景長ら稙宗の集権化政策に反発する重臣達の支持を受け、天文11年(1542年)ついに父・稙宗を押し込めることを決意する。

対立構図

太字は稙宗の子、斜体は稙宗の婿。 テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break

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経過

天文11年(1542年)6月、晴宗は鷹狩りの帰路を襲って稙宗を捕らえ、居城・西山城に幽閉した。ところが稙宗は側近・小梁川宗朝によって救出されて娘婿・懸田俊宗[2]の居城・懸田城へと脱出し、相馬顕胤をはじめとする縁戚関係にある諸大名に救援を求めたため、伊達氏の内紛は、一挙に奥羽諸大名を巻き込む大乱になった。

序盤は諸大名の多くが加担した稙宗方優位のうちに展開し、陸奥では大崎義宣黒川景氏柴田郡まで兵を進めて留守景宗を抑え、出羽では鮎貝盛宗上郡山為家最上義守らが長井郡をほぼ制圧した。ところが、天文16年(1547年)、稙宗方の田村隆顕蘆名盛氏の間に不和が生じて両者が争い始めると、蘆名氏は晴宗方に転じた。このため戦況が一転して晴宗方優位に傾くと、さらに稙宗方からの離反者が相次ぎ、ついに天文17年(1548年)9月、将軍・足利義輝の仲裁を承けて、稙宗が隠居して晴宗に家督を譲るという条件で和睦が成立し、争乱は終結した。

同時に越後においても、時宗丸入嗣推進派と反対派との間で戦闘が発生したが、入嗣推進派の上杉定実・中条藤資らは、反対派の守護代長尾晴景や揚北衆などの越後国人衆に敗れ、ついに時宗丸入嗣案は完全に頓挫した。

影響

6年間にも及んだこの乱により、稙宗が当主となって以来拡大の一途をたどってきた伊達氏の勢力は一気に衰弱した。まず、伊達氏に服属していた奥羽諸大名のうち蘆名氏・相馬氏・最上氏などが乱に乗じて独立して勢力を拡張、特に蘆名氏は伊達氏と肩を並べるほどの有力大名へと成長した。また大崎・葛西両家においても、養子として送り込まれていた稙宗の子(義宣・晴清)が討たれ、乗っ取りが失敗に終わった。

一方、伊達家中においても、稙宗方についていた懸田俊宗らが和平案を不服として晴宗に反抗を続け、この鎮圧にさらに5年余りを要した。加えて晴宗方の重臣・中野宗時が乱中にあって、子の久仲を牧野氏の後継に送り込むなどして力を伸ばし、家中最大の勢力となって権勢を振るうようになった。晴宗は乱の終息後、家中の検断を行って(『晴宗公采地下賜録』)集権化を図るが、晴宗方についた重臣達には守護不入権などを認めざるを得なかった。こうした乱の後遺症の後始末がようやく終わったのは、晴宗の子・輝宗の代であった。

越後では、天文19年(1550年)に上杉定実が跡継ぎを得られぬまま死去し、越後守護上杉氏は断絶した。そのため守護代長尾景虎(晴景の弟)が越後国主となり、名実ともに戦国大名としての地位を獲得した。

参考文献

  • 小林宏『伊達家塵芥集の研究』(創文社、1970)

脚注

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  1. 小林清治は、当時の伊達領の範囲を『棟役日記』に記載された陸奥の伊達信夫刈田柴田名取伊具宇多の各郡と出羽の長井郡および、『段銭古帳』で追加された志田郡松山庄・宮城郡の高城保・黒川郡の大松沢・行方郡の草野までと推定している。ただし、『段銭古帳』には懸田俊宗の所領である伊達郡懸田・川俣などが含まれていないことから、伊達氏はこれら各郡庄の郷村を全面的に領有し得たわけではなかったとしている(『福島県史』第一巻810~811頁。1969)。
  2. 『川俣史』によれば、天文10年頃、阿武隈川で発生した洪水によって河流が西に移って晴宗の領内に曲入したため、晴宗と俊宗の間で領地をめぐる争いが勃発していたという。