二本松義氏

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テンプレート:基礎情報 武士 二本松 義氏(にほんまつ よしうじ)/畠山 義氏(はたけやま よしうじ)は、戦国時代武将二本松氏第7代当主。陸奥国安達郡二本松城主。

生涯

享禄3年(1530年)、二本松氏第5代当主・二本松村国の子として生まれる[1]。この時期の二本松氏の系譜については諸説有る。

義氏が家督を相続したのは、天文15年(1546年)4月に兄の第6代当主・二本松家泰が死去した際であると思われるが、伊達稙宗晴宗父子の争いである天文の乱に関する二本松氏の活動は、家泰存命中の時点においても既に義氏の名で記されている。これは両者が混同されたためとも考えられる。義氏および兄の家泰は稙宗方に属し、天文11年(1542年)9月13日には田村隆顕石橋尚義らの援助を得て、家中の晴宗派の家臣を二本松城から追放し、さらに14日には八丁目城主堀越興行が晴宗方の遊佐美作守の城を攻略した。また晴宗方に与した庶流の本宮宗頼を攻め、天文14年(1545年)6月3日には本宮城を攻め落とした。

天文15年(1547年)3月5日死去。享年18。義氏には子がおらず、叔父新城村尚の子・尚国が当主として迎えられた。

関連項目

参考文献

  • 『二本松市史』(福島県二本松市)
    • 第1巻 通史編1(原始・古代・中世)1999
    • 第3巻 資料編1(原始・古代・中世)1981

脚注

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テンプレート:二本松氏当主

 
  1. 『松府来歴金華鈔』・『積達館基考』によれば、義氏は家泰の弟で、兄の養子となったという。