総統

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総統(そうとう)とは、国家元首またはそれに匹敵する国家の最高指導者の地位を表す名称の1つ。日本語における「総統」の語義は「全体をすべくくること」[1] で、現代の中国語では「大統領」を意味する。そのため、日本語としての用例はほとんど、中華民国の国家元首のほかは、ドイツアドルフ・ヒトラーイタリアベニート・ムッソリーニスペインフランシスコ・フランコなど全体主義体制国家の最高指導者の地位を示す場合に限られる。

テンプレート:Flagicon ドイツ

ドイツ史において総統は、ナチス・ドイツの最高指導者、アドルフ・ヒトラーに対して用いられることが多い。

Führerの語義

ドイツ語でヒトラーの地位を意味する語は テンプレート:Interlang である。この言葉は、日本語では「指導者」と訳されることが多い[2]

政治運動におけるFührer

このような意味を持つ「テンプレート:De」が政治運動の指導者の肩書きとして使用される端緒となったのは、オーストリア=ハンガリー帝国においてドイツ国民運動 (テンプレート:Interlang) を率いたテンプレート:仮リンク が、1879年に自らの肩書きとして、「テンプレート:De」(ドイツ国民運動の指導者)を用いたことである。ドイツ敗戦後のヴァイマル共和国に成立した多くの政治運動も指導者の名称としてテンプレート:Deを採用した。

ヒトラーの地位

ナチ党のFührer

1921年7月29日、ヒトラーは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の幹部会によって第一議長に就任した。この頃から、ヒトラーの支持者であるディートリヒ・エッカートルドルフ・ヘスらはヒトラーの呼称として「Führer」を用い始め、次第に党内に定着した[3]。ヒトラー自身は「テンプレート:De」の語がどうして生まれたか知らないと語っている[4]。ヒトラーはナチ党内の支配体制として『指導者原理』(テンプレート:De) を採用した。これは党内を階層化し、それぞれの階層はそれぞれの階層のテンプレート:Deに従い、そのFührerは上位のテンプレート:Deにのみ任命され、従属しなくてはならないという仕組みである。

また、党内の半軍事組織である突撃隊親衛隊国家社会主義自動車軍団などの党内組織の指導者には、親衛隊全国指導者 (テンプレート:De) や上級大隊指導者 (テンプレート:De) のように、テンプレート:De が付属した役職名が用いられている。

首相期のFührer

1933年、ヒトラーはドイツの首相 (テンプレート:De) に就任し、政権を掌握した。彼の公文書での官職名は「ドイツ国首相」だったが[5]、ナチ党員からは「テンプレート:De」(指導者兼ドイツ国首相)と呼ばれた。ヒトラーは就任直後に議会を解散し、選挙活動を開始した。この選挙中の2月1日、ナチ党は「われわれは国民と国家の指導者 (テンプレート:De) として神に対し、我々の良心に対し、わが民族に対し、われわれに与えられた使命を断固実現することを誓約するものであります」[6] というアピールを行った。

選挙がナチ党の圧勝で終わった後の3月21日、国会開会式においてヒトラーは次のような演説を行った。

テンプレート:Quotation

これは、ヒトラーがナチ党の勝利を、従来の統治とは異なる「ライヒ指導」つまり「ナチス党及びその指導者であるヒトラーが民族とライヒを指導する」という新たな政治形態が信任されたと定義したものであった[6]。この定義はナチ党の公式見解となり、第5回ナチ党党大会で、ヒトラーは「ナチス党は、1933年1月30日、ライヒの政治指導を委託された」と演説し、ルドルフ・ヘスも「党が民族意思を組織的に表現する。それ故、党が国民と国家 (テンプレート:De) 指導の担い手であり、当然の結果として、党の指導者が国民と国家の指導者となったのだ」「あなた(ヒトラー)は、国民と国家の指導者として、われわれの最終的勝利の保証人なのです。われわれは、あなたの中に体現された国民と国家の指導者に対し心より歓迎の意を表するものです」と応じた[7]

ドイツ国のテンプレート:De

1934年8月1日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が危篤になると、ヒトラー首相は「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定した。この法律の第1条には、ヒンデンブルクの死後に テンプレート:Quotation とあり、単に首相職と大統領職の統合だけではなく、大統領の権限は「(テンプレート:De である)アドルフ・ヒトラー」個人に委譲されるというものであった[8]

これにより、国家の枠外にあり、国家を超えるテンプレート:Deが国家の上に立ち、憲法体制を支配するという体制が完成した[9]。この手続きは、8月2日のヒンデンブルクの死とともに発効した。

8月3日、ヒトラーは、この措置の正統性を問う、テンプレート:仮リンク[10]を行うことを公布した[11]。この民族投票自体は、総統官邸長官ハンス・ハインリヒ・ラマースが全く不必要な措置としているように、ヒトラーの法的地位に関して影響を及ぼすものではなかったが、ヒトラーは「ドイツ国の新たな憲法体制を生み出す権限を、先に私に与えられた全権から導き出すことを拒否しなければならない。否、それは民族自らが決定するものでなければならない」として、自らの地位を民族からの委託に基づくものであることを示そうとした。またこの日の声明で「ライヒ大統領」の称号は偉大なるヒンデンブルクと不可分になったとして、みずからは公私ともに従前通り「テンプレート:De)」と呼ばれることを望むとした。

8月19日に行われた投票は、投票率は95.7%、うち89.9%が賛成票を投じ、ヒトラーの地位は盤石なものとなった。翌日、ヒトラーは「ドイツ国は今日ナチス党の手の中にある」「民族同胞諸君の投票により全世界に向かって国家と運動の統一が表明されたのだ」という布告を一切の肩書き無しで行った[12]

この「指導者兼ライヒ首相アドルフ・ヒトラー」という称号は、文字どおり、アドルフ・ヒトラーの人格を介した運動と国家の結合という、前例のないものであった。ヴァイマル共和国すべての大統領府長官をつとめたオットー・マイスナーは「今回の立法措置により、指導者 (テンプレート:De) は「国家の機関 (テンプレート:De)」となり、また「国家の人格 (テンプレート:De))」となった」と主張している[9]。一方で内務省次官ヴィルヘルム・シュトゥッカートは「指導者(Führer)の官職は国家法的に何か全く新しいものである」とし、「独裁者でも、絶対君主でもない。彼はまた立憲君主や大統領とも比較可能なものではない」としているが、法学者テンプレート:仮リンクは「指導者は通常の法律用語の意味で官職を有するものではない」とし、テンプレート:仮リンクもまた「指導者 (テンプレート:De) と官職の保持者は本質的に異なるものである」とした。ヒトラー自身は「10年もすれば『総統』(テンプレート:De) という呼称は非人格的性格を持つようになるだろう」「『首相』の代わりの公式名として『総統』という称号を使うことになっても私はいっこうにかまわない」「つまらない人間が組織の『長』に選ばれることはありうるが、誰にでも総統の称号がふさわしいわけではない」[4] と、通常の官職と同一視していない。このように「テンプレート:De」に対する見解が分かれているのは、「テンプレート:De」やその権限を定義する法律が最後まで成立しなかったことにある[13]

これ以降、テンプレート:Deの使用が浸透すると、首相の称号は重視されなくなり、1939年8月以降、公文書では単にテンプレート:De と表記することが通例となったテンプレート:Sfn。その後、ヒトラー自身は単に名前を署名するだけで、肩書を付けることもなくなっていった。ヒトラーに対しても「総統」「我が総統」の呼びかけが用いられ、ヒトラーが三人称で呼びかけられることはなくなった[4]

1941年と1942年に開かれた冬季救済事業の開幕式でヒトラーは「神は、1933年1月30日、私に対しライヒの指導を委託した」と演説し、ヒンデンブルクやドイツ民族がテンプレート:Deの権限の源泉であるとは主張しなくなっていた。

テンプレート:Deによる統治

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H03823, Berlin, Deutschlandhalle, Generalappell.jpg
テンプレート:De(1つの民族、1つの国、1人のテンプレート:De)のスローガンが掲示されたナチ党の集会。1938年3月

ナチ党の定義では、テンプレート:Deは民族の中から選ばれるものではなく、民族が必要とする時により高次の存在から与えられるものであるとされた。また、テンプレート:Deの権威は、テンプレート:De個人の人格と不可分であるとされた。このため、テンプレート:Deは「一回限り」の現象であり、その権威を譲渡するのは不可能であるとされた[14]

テンプレート:Deの指導は法規範によるものではなく、「人格指導」によって行われた。大統領や首相が法律に定められた権限を持つのに対し、テンプレート:Deの権力は、民族の最終日標や生存法則等の世界観以外の他のいかなるものにも制約されなかった[15]。また、指導者はいわば無謬の存在であり、民族共同体の唯一の代表者であると定義され[16]、官吏や軍人は、憲法ではなくテンプレート:De個人への忠誠が求められた(忠誠宣誓)。また、政治家の権力は、法や官僚機構によるものではなく、テンプレート:Deとの人格的距離によって権力が定まった[17]。ヒトラーは「テンプレート:Deの決定は最終決定であり、無条件の服従が求められなければならない」と語っている。この思想はゲーリングが提唱した「テンプレート:Deが命令する、私たちは従う」というスローガンによく現れている。

1933年12月1日には、『党と国家の統一を保障するための法律』が公布され、ナチ党は「ナチズム革命の勝利の結果、国家社会主義ドイツ労働者党がドイツ国家思想の担い手となり、国家と不可分に結ばれた」と定義された。しかしこれは、「党が国家に吸収された」というものではなく、党及び国家は民族の指導者の手の中にあって、民族の最終目標に奉仕する一つの手段、装置として位置づけられたものである[18]。これはヒトラーが「我が闘争」で「国家は目的ではなく、一つの手段である」と定義したことに附合していた。しかし実際の現場において党と国家の役割の区分は曖昧であり、その区分はテンプレート:Deの裁量で行われた。このため党機関や政府機関の間で権限をめぐる勢力争いが頻発した。

テンプレート:Deに指導される民族には、指導者にとって望ましい民族であることが望まれた。このため民族には画一的な思想や行動をとる、強制的同一化(強制的同質化、テンプレート:De)が求められた。

1942年4月26日、ナチス・ドイツ最後の国会でテンプレート:Deは、「いついかなる状況」においてでも「すべてのドイツ人」に対し、「その者の法的権利にかかわりなく」、「所定の手続きを得ることなく」罰する権利を手に入れた。これによりテンプレート:Deは、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった[19]

ヒトラーは最終的には、一党独裁体制下における支配政党の党首、首相、立法権の掌握者(全権委任法)、国家元首、国防軍最高司令官(国防大臣の権限も吸収)、陸軍総司令官を兼ね、国家のすべての権限を一手に握ることになった。テンプレート:仮リンクはこのナチズムの統治体制を「テンプレート:De(総統国家)」という言葉で表現した。

消滅

1945年4月、ヒトラーは自殺に先立つ遺言書で、大統領兼国防軍最高司令官にカール・デーニッツ海軍元帥、首相 (テンプレート:De) にヨーゼフ・ゲッベルス、ナチ党担当大臣 (テンプレート:De) にマルティン・ボルマン陸軍総司令官 (テンプレート:De)[20]フェルディナント・シェルナー陸軍元帥をそれぞれ任命し、掌握していた権限を分割した。しかし「テンプレート:De」の後継は指名されず、テンプレート:Deの地位はヒトラーとともに消滅した。

日本語訳

当時の日本では、野党時代のヒトラーは「党首」「首領」などの肩書で呼ばれていた。

1934年にヒトラーが国家元首の権能を吸収した当初は、「大統領」や「首相」の語も用いられたが、やがて「総統」が主に用いられるようになり、しだいに定着した。「総統」の語自体は国家元首就任後間もない1934年8月4日から使用されている[11][21][22]

ヘスの地位「テンプレート:De」も、「副総統」等と訳されるようになった。

ヒトラー死後の日本語の新聞では、大統領に就任したデーニッツの地位を「総統」と訳した事例もあり[23]、その後もデーニッツを第2代総統とする資料もある[24]

戦後、ヒトラーの地位の日本語訳として「総統」が一般的に使用され、国家元首就任以降のヒトラーのみならず、それ以前のヒトラーの地位に対しても「総統」の訳語をあてることが多くなった[25]。この結果として、ヒトラーの地位としての日本語の「総統」は、次のような異なった使い方がされる状況にある。

  1. ナチ党の用語であり、ナチ党の権力掌握後はドイツ国においても用いられた、ナチ党およびドイツ民族の最高指導者を示す「テンプレート:De」の訳語。この形式では政権獲得後のヒトラーの肩書きは「総統兼首相」「総統兼宰相」などと表記される[11][26][27][28]。日本のナチス研究者のうち、平井正は野党時代と国家元首時代の「Führer」は訳を区別するべきであると考えているが、場合によっては野党時代でも「総統」を用いておりテンプレート:Sfn村瀬興雄は、大統領権限吸収以前のテンプレート:Deを「指導者」、以後は「総統」と訳を区別している。
  2. 1933年1月以降の、ドイツ国の首相であるとともにナチ党の「テンプレート:De」であるヒトラーの地位[29][30]
  3. 1934年以降の、ドイツ国の国家元首であり、首相であり、ドイツ国(ひいてはドイツ民族)および支配政党であるナチ党の「テンプレート:De」であるヒトラーの地位[31][32]

その他のファシスト国家

テンプレート:Flagicon イタリア

テンプレート:See also

イタリア総統は、イタリア王国の独裁者ベニート・ムッソリーニの肩書を表現する際に使用されることもある[33]。ただし、ムッソリーニの肩書きは統領あるいは統帥と訳される場合が多い。

ムッソリーニはファシスト党創設当初からテンプレート:It(ドゥーチェ)と呼ばれており、これはドイツ語のテンプレート:Deに相当する単語である。ムッソリーニは1922年10月国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から首相に任命された。1925年1月3日の議会演説で実質的に独裁体制を宣言し、12月24日に従来の閣僚評議会議長首相職)より権限の強い「テンプレート:仮リンク」(テンプレート:Lang-it)に就任した。ただし、法律上は国王が国家元首で、ムッソリーニは首相であること、また、軍隊も彼ではなく国王に対し忠誠を誓っているなどの点で、ドイツの総統に比べると独裁の程度は弱い。実際にムッソリーニは、1943年7月に国王から首相を罷免されると、その場で憲兵に身柄を拘束され幽閉された(イタリアの降伏)。その後ドイツによって北イタリアに成立したイタリア社会共和国において、ムッソリーニは国家元首の地位にあるとされ、指導政党である共和ファシスト党においてもドゥーチェと呼ばれたが、実権を持たないドイツの傀儡に過ぎなかった。

テンプレート:Flagicon スペイン

テンプレート:See also スペイン総統は、スペインの国家元首フランシスコ・フランコの称号を指す[34][35]

フランコの肩書きは時代によって変化するが、一般にスペイン語テンプレート:Esカウディーリョ)と呼ばれていた。テンプレート:Esは、ドイツ語のテンプレート:De、英語のテンプレート:Enに相当する単語で、本来は頭目や親分を意味するが、統領とも訳され、スペインイスパノアメリカでは独裁権を握った政治・軍事指導者に対して使用された称号である。、フランコの称号としてテンプレート:Es(ヘネラリッシモ)もあるが、これはテンプレート:Es将軍)に増大辞テンプレート:Es がついた語で、将軍の上位にあって陸海空の三軍を統括する地位を意味する。このスペイン語の単語は、大元帥総帥総司令官などと訳される。

スペイン内戦で反乱軍内の指導権を確立したフランコ将軍は、1936年10月1日ブルゴスにおいて、反乱軍の総帥(テンプレート:Es ヘネラリッシモ)に指名され、反乱軍側の国家元首(テンプレート:Es ヘーフェ・デ・エスタード)に就任した。その際、フランコは国家元首としての自己の称号を(テンプレート:Es エル・カウディーリョ)と定めた。以後、フランコは軍隊の総司令官として総帥(ヘネラリッシモ)、国家元首として総統(カウディーリョ)と呼ばれることとなる[36]。フランコ政権は、1938年1月30日に内閣制度を導入し、フランコは国家元首兼首相となった。その後、1939年3月27日にフランコ軍は首都マドリードに入城、31日にはスペイン全土が制圧され、4月1日フランコは内戦終結宣言を発した。こうして名実共に独裁体制を確立したフランコは、さらに1947年、「王位継承法」を制定し、スペイン国を「王国」とすること、スペイン国の国家元首をフランコ総統とすること、また、フランコが終身の統治権を有し、後継の国王の指名権を持つことなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票によって成立し、フランコは終身国家元首の地位に就いた。

フランコ総統は1969年、自分の後継者として元国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロスを指名した。その後1973年6月に首相を辞任、1975年11月に82歳で死去した。その2日後、フアン・カルロス1世は国王に即位した。それまでの言動から独裁体制を継承すると思われていた国王であったが、予想に反して民主主義体制の整備を急ぎ、1978年12月、国王の権限を儀礼的なものに限定して権力分立を定めた憲法を、国民投票による承認を受けた上で公布した。こうして、スペインの独裁時代は幕を閉じ、「総統」の称号も消滅した。

テンプレート:Flagicon クロアチア

クロアチア独立国では、独裁者アンテ・パヴェリッチPoglavnik(ポグラヴニク)の称号を名乗っており、これが国家指導者または総統と訳される。建国当初、同国の国家元首は国王トミスラヴ2世(在位 1941年–1943年)だったが、これは形式上の地位にとどまり(国王は終始イタリアに滞在し、ついにクロアチアに足を踏み入れることがなかった)、ポグラヴニクであるパヴェリッチが事実上の国家元首であった。さらに、1943年にはトミスラヴ2世が退位したため、パヴェリッチはポグラヴニクの称号のもとに名実ともに国家元首となった。とはいうものの、クロアチア独立国自体がナチス・ドイツの保護下にある傀儡国家であった。

テンプレート:Flagicon ルーマニア

ルーマニア王国では1940年、イオン・アントネスクが、国民投票の結果「Conducător」に就き、1944年にルーマニア革命で失脚するまで、ルーマニアの事実上の独裁者となった。Conducătorは英語のテンプレート:Enに相当するルーマニア語であり、国家指導者と訳すのが通例であるが、総統と訳す場合もある。

  • ただし、ルーマニア王国には国王がいたため、アントネスクの地位は国家元首ではない。

テンプレート:Flagicon 中華民国

テンプレート:Main

一般に中国語では、英語の(国家の)テンプレート:En を「総統」(繁体字: テンプレート:Interlang、簡体字: テンプレート:Interlang)と訳す。例えば、アメリカ合衆国大統領も「美国総統」と呼ぶ。

中華民国建国当初の国家元首は臨時大総統だった。1912年に、代表からなる臨時大総統選挙会により、孫文が初代臨時大総統となった。なおこれは、臨時に「大総統」に就いたという意味ではなく、「臨時大総統」という地位である。

同1912年、孫文の推薦と臨時参議院の議決により、袁世凱が2代目臨時大総統となった。そして1913年に初代の正式な大総統となり、以降、北京政府は大総統の称号を使い続けた。

その後、国民党によって組織された国民政府では主席を国家元首の名称として使用したが、1948年以降は国家元首として「総統」の名前を用いている。

国民からの民主化の要求が高まり、自らも民主化を望んでいた李登輝総統は、1996年、総統の直接選挙制度を導入した(台湾総統選挙)。この改革により総統の地位は、「建国の父」孫文が模範としたアメリカ合衆国大統領と、直接選挙と間接選挙といった選出方法の違いや首相職の有無などはあるものの、権限および権威の面で非常に似たものとなった。

日本語を学習した台湾人には、日本語で テンプレート:En を大統領と訳し、「総統」の用例が上述のようなものであることから、日本人に自国の国家元首を「総統」と呼ぶのを避け「大統領」と説明する者もいる。

25px 南ベトナム

南ベトナムベトナム国ベトナム共和国)においては、中華民国同様に最高指導者は「大統領」の訳語として「総統」(テンプレート:Lang-vi)を名乗った。

類似した事例

テンプレート:Flagicon ノルウェー

ノルウェーでは、親独ファシスト政党の国民連合 (テンプレート:Interlang) 党首ヴィドクン・クヴィスリングが、ヒトラーに倣って指導者 (fører) を名乗った。ただし、これを「総統」と日本語訳した例はない。

  • クヴィスリングは、1933年に国民連合を創設。ノルウェーがドイツに占領された1940年にノルウェーの指導者(クヴィスリング政権)となり、1942年に正式に首相となった。ただ、これはドイツの傀儡政権であり、実権はドイツから派遣された総督(国家弁務官)のヨーゼフ・テアボーフェンが握っており、クヴィスリングにはほとんど権限は与えられなかった。

テンプレート:Flagicon ルーマニア

戦後の共産政権大統領となったニコラエ・チャウシェスクも、1968年ごろから、かつてのイオン・アントネスクの称号である「Conducător」(国家指導者)と呼ばれた。前述の通りアントネスクの「Conducător」には「総統」という日本語訳を宛てることもあるが、チャウシェスクのそれを「総統」と日本語訳した例はない。

フィクション

日本語のフィクション作品(映画、コミック、小説など)においては、ヒトラーをモチーフとしたキャラクター、悪の国家の元首、悪の組織の首領などに対して総統または類似の称号を名乗らせている事例がある。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

  • 日本国語大辞典』第12巻。このほか、『大漢和辞典』巻8には「全体のことがらをすべ纏める」とある。「総統」の語の出典は、『漢書』百官公卿表の「太師、太傅、太保、是為三公。蓋参天子、坐而議政、無不総統」から。
  • Führerという言葉は、ドイツでは山岳ガイド、官庁における自動車や電車の運転手といった「複数の人間の生命を預かる重責を担った指導者」の呼称としても用いられている。
  • 村瀬、p.208
  • 4.0 4.1 4.2 1942年1月3日から4日のヒトラー談話。テンプレート:Harv
  • 全権委任法での署名など。
  • 6.0 6.1 南、指導者‐国家‐憲法体制の構成、p.4
  • 南、指導者‐国家‐憲法体制の構成、p.5
  • 南、指導者‐国家‐憲法体制の構成、p.19。また翌日、ヒンデンブルクの死去に伴って発されたヒトラーの布告「元首法の執行に関する命令」には、内務大臣ヴィルヘルム・フリックに対し「内閣により決定され、かつ憲法に基づき合法的に私の人格及びドイツ国首相職に対しかつてのライヒ大統領の権限が委任された」と記述されている。南、p.21
  • 9.0 9.1 南、指導者‐国家‐憲法体制の構成、p.21
  • 1933年7月14日に制定された「民族投票法」による。議会や国民の一定数の支持があれば行えたヴァイマル時代の国民投票とは異なり、投票の発議権は政府のみに存在していた。また民族投票は決定を行う手段ではなく、政府が行った決定を承認する性格しか持たなかったテンプレート:Harv
  • 11.0 11.1 11.2 「独大統領兼摂を民意に問う 大阪朝日新聞 1934.8.4(昭和9)」 - 神戸大学附属図書館 デジタルアーカイブ
  • 南、指導者‐国家‐憲法体制の構成、pp.22–24
  • 南、民族共同体と指導者―憲法体制、pp.40–42
  • 南、民族共同体と指導者―憲法体制、p.13
  • 南、民族共同体と指導者―憲法体制、p.39
  • 南、民族共同体と指導者―憲法体制、p.51
  • 南、民族共同体と指導者―憲法体制、pp.43–46
  • 南、指導者‐国家‐憲法体制における立法(1)、p.115
  • 指導者‐国家‐憲法体制における立法(3)、pp.45–56
  • ヒトラーは1941年12月19日より陸軍総司令官を兼務していた。
  • 政治犯に特赦令を発布 : なかなか味をやるヒトラー首相1934年(昭和9年)8月11日大阪時事新報
  • 昭和9年(1934年)12月外事警察報第149号
  • 1945年(昭和20年)5月6日付読売新聞(JACAR(アジア歴史資料センター)、Ref.B04013495500 、第5~6、31画像目)を参照。
  • 『日本外交文書』特集「太平洋戦争」(全3冊) - 外務省
  • ジョン・トーランド著、 永井淳訳 『アドルフ・ヒトラー』(集英社文庫)全4巻
  • テンプレート:アジア歴史資料センター
  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』
  • 「ヒトラー政府初期の雇用創出計画(失業対策)について [1]阿部正昭法政大学教授論文
  • 三石善吉トット・アウトバーン・ヒトラー:アウトバーン物語
  • テンプレート:Cite journal
  • 世界大百科事典 第2版』(平凡社)ヒトラーの項
  • 高柳光壽竹内理三編『角川日本史小辞典』第2版(角川書店)1974年。
  • テンプレート:Cite journal、58p
  • テンプレート:アジア歴史資料センター
  • 外交史料館 特別展示「日本とスペイン―外交史料に見る交流史―」VI 外交関係の再開 - 1953年6月22日にマドリードで行われた皇太子明仁親王のスピーチ原稿では「フランコ総統」と記載されている
  • 色摩力夫『フランコ スペイン現代史の迷路』中央公論新社、2000年。