アルフォンソ13世 (スペイン王)

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テンプレート:基礎情報 君主 アルフォンソ13世テンプレート:Lang-es1886年5月17日 - 1941年2月28日)は、スペイン国王(在位:1886年5月17日 - 1931年4月14日)。

生涯

父王アルフォンソ12世の唯一の男子としてその死後に生まれたため、出生と同時に国王となり、母マリア・クリスティーナ摂政を務めた。1902年から親政を開始した。

1906年イギリス女王ヴィクトリアの孫娘であるバッテンバーグ家ヴィクトリア・ユージェニー(スペイン名ビクトリア・エウヘニア)と結婚し、5月31日に婚儀を挙げた。ビクトリア・エウヘニアはバッテンベルク公ハインリヒ・モーリッツの娘で、イギリス国王ジョージ5世の従妹でもあった。この婚儀が公表されると、イギリスとスペインの両国で議論が沸騰した。公表と同時にビクトリア・エウヘニアはプロテスタントからカトリックへ改宗したが、これをイギリス国内の強硬派は「カトリック教会何するものぞ」と批判した。ビクトリア・エウヘニアの実家には「プリンス」(Prinz)の称号があり、そこで議論は政府レベルに持ち上げられたが、称号は形だけで、彼女は公金の受領者ではなかったため、この議論は収拾した。一方、スペインではカトリック教徒の多くがビクトリア・エウヘニアを攻撃した。改宗とは結婚のための方便であり、カトリックを本当に信仰しての行為か怪しいもの、というのが主たる理由であった。

婚儀が終了し、ロイヤル・カップルが無蓋の馬車で大聖堂からパレードに移ったときも、マドリードにはこの空気が張り詰めていた。厳重な警備にもかかわらず、沿道の人垣から1人の男が飛び出し、易々とロイヤル・カップルの馬車に近づいて1発の爆弾を投じた。それは馬車には命中せず路上で爆発し、現場はパニックに陥った。警護の兵士と観衆31人が命を落としたが、新婚のアルフォンソ13世とビクトリア・エウヘニアは無事だった。犯人は逮捕される前に自殺して果てた。当初宗教問題が犯行の動機と考えられたが、調査の結果、犯人はマテオ・モラレス(通称モラール)という無政府主義者とわかった。翌日、ビクトリア・エウヘニアは当初の日程の通りに闘牛見物を続行することで自らの勇気を証明し、スペイン民衆の中での立場を強化した。観客は総立ちでこれを歓呼した。

アルフォンソ13世はしばしば社会改革の努力を行うものの、途絶えることのないテロの中で政府高官は次々に暗殺され、統治の形態はますます旧来の抑圧へ傾斜を深めた。また、社会不安に混沌とする国内を鎮めるため、イタリアに倣い、1923年にはプリモ・デ・リベーラ将軍を登用し、権威主義体制による王権維持を目指した。プリモ・デ・リベーラ失脚後の1931年4月12日に行われたテンプレート:仮リンクの結果、アルフォンソ13世は国外亡命に追い込まれた。後に亡命先のローマで死の直前に退位し、名目上の王位を四男のフアンに譲ったが、スペインが王政復古したのはアルフォンソ13世の亡命から44年後の1975年であり、フアンの息子フアン・カルロスが王位に就いた。

子女

アルフォンソ13世とビクトリア・エウヘニアは5男2女を儲けたが、長男アルフォンソと末息子ゴンサーロ血友病に冒された。

  1. アルフォンソ1907年 - 1938年アストゥリアス公
  2. ハイメ1908年 - 1975年) セゴビア公爵
  3. ベアトリス1909年 - 2002年
  4. フェルナンド(1910年、死産)
  5. マリア・クリスティーナ1911年 - 1996年
  6. フアン1913年 - 1993年バルセロナ伯爵
  7. ゴンサーロ1914年 - 1934年

関連項目

ファイル:Maria Christina von Österreich with her son.jpg
幼少期のアルフォンソ13世と摂政マリア・クリスティーナ王太后(ルイス・アルバレス・カターラ画)

テンプレート:Commons&cat

先代:
アルフォンソ12世
スペインの元首
1886年 - 1931年
次代:
ニセート・アルカラ=サモーラ
第二共和国大統領
先代:
アルフォンソ12世
スペイン国王
1886年 - 1931年
次代:
フアン・カルロス1世
先代:
スペイン王位請求者
1931年 - 1941年
次代:
フアン3世
先代:
シャルル12世
フランス王位請求者
(正統王朝派)
1936年 - 1941年
次代:
アンリ6世