大内政弘

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大内 政弘(おおうち まさひろ)は、室町時代守護大名大内氏第14代当主。父は大内教弘、母は山名宗全の養女で山名熙貴の娘。最盛期には周防長門豊前筑前と、安芸石見の一部を領有し、強大を誇った。応仁の乱には西軍側の主力として参戦する。文化にも造詣が深く、後年山口が西の京と呼ばれる基礎を築く。

生涯

出生と家督相続

文安3年(1446年)、大内教弘の子として生まれ、のち元服時に室町幕府第8代将軍足利義政より偏諱を賜い、父・教弘からも1字を与えられて政弘と名乗る。

寛正6年(1465年)、父・教弘の死により19歳で家督を相続し、周防・長門・豊前・筑前の守護も継承した[1]

細川氏との対立

父に引き続き日明貿易(勘合貿易)をめぐり管領細川勝元と争い、細川氏と敵対する伊予河野通春を支援する。これに対し細川氏は大内氏追討の幕命を発し、安芸分郡守護武田信賢や安芸国人小早川煕平毛利豊元らが安芸で大内軍と衝突した[2]

一方、京から追放されて父が引き取っていた斯波義敏は、政弘と勝元との敵対で政弘から離脱し、寛正6年12月30日に上洛。将軍・足利義政に赦免されると、翌文正元年(1466年7月23日斯波義廉に代わって斯波氏当主に復帰、8月25日越前尾張遠江の守護に任じられた。義廉は寛正6年の段階で畠山義就と山名宗全(政弘の義理の祖父)と繋がっていて、政弘も宗全と連携、これらの確執が応仁の乱の際に反細川氏側につく要因となる[3][1]

応仁の乱

応仁の乱では西軍の山名宗全に与力し、応仁元年(1467年)7月に上洛、およそ10年間にわたり畿内各地を転戦する。政弘の不在を突いて東軍方の少弐教頼宗盛貞が筑前に侵攻するが、敗退している。しかし、文明元年(1470年)に少弐氏、細川氏らに使嗾された叔父・教幸(道頓)が赤間関(現・下関市)で謀反を起こす(大内道頓の乱)。政弘は、益田貞兼を急遽帰国させ、留守を守っていた重臣・陶弘護の反乱鎮圧に加わらせた。弘護らの活躍もあり、豊前にまで追い込まれた教幸は、文明4年(1472年)に自害し、乱を鎮圧された。

応仁の乱が収束すると文明9年(1477年)11月に山口に帰国。乱後に安堵された周防・長門に加え安芸東条西条ほか石見仁摩郡を安堵され、文明10年(1478年)には九州に出陣して少弐氏と戦い、豊前・筑前を得る。安芸、石見の豪族や国人らを臣従させ、北九州や瀬戸内海の海賊衆を平定するなど西国の支配権確立に力を傾ける。

再上洛

文明12年(1480年)に相伴衆となる。長享元年(1487年)、9代将軍・足利義尚が行った近江国六角高頼討伐(長享・延徳の乱)には家臣・問田弘胤を代理として参陣させた。

延徳3年(1491年)、10代将軍・足利義稙に従い再度の六角高頼討伐に従軍するため再び上洛。翌明応元年(1492年)には嫡子・義興も参陣させている。しかし、明応3年(1494年)、中風が悪化したため義興に家督を譲って隠居。明応4年(1495年)に死去した。享年50。

内政・文化

  • 日明貿易は博多商人と連携し、堺商人と組んだ細川氏と競合しつつ遣明船を派遣した。また、対朝貿易にも応仁の乱以降力を入れた。これらで得た莫大な利益は、軍費などに充てられた。また、応仁の乱後は領国経営にも意を注ぎ、社会秩序の確立に努めた。分国法として知られる大内家壁書の多くはこの時期に作られ始めたという。
  • 和歌連歌を好み、家中にも勧奨した。一条兼良正広宗祇三条西実隆ら多くの歌人・連歌師と交流する。荒廃した京から公家、僧侶、雪舟などの芸術家を山口に招き、文化の興隆に尽力した。文明12年には宗祇を招き、連歌会を行なっている。さらに、私家集『拾塵和歌集』を編纂、自作の歌1100余首を残すとともに、准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』も後援し、そのなかには自らの歌も多く撰ばれている。
  • 大内文化の代表的な庭園と言われる、常栄寺庭園は、政弘が雪舟に築庭させたと伝えられている。
  • 当時知られ始めた能楽についても高い関心を示し、文明15年(1483年)に猿楽座宝生が大内氏館で興行・指導を行った記録がある。
  • 大内氏は多くの古典を収集し、出版、筆写させた。大内版と呼ばれるこれらの出版物のうち、政弘は法華経28巻や漢詩辞書『聚分韻略』を出版している。

偏諱を受けた人物

家臣団


その他

脚注

  1. 1.0 1.1 歴史群像シリーズ特別編集 毛利戦記 復刻版(2010年学習研究社)p16-17 大内概略〜義隆登場以前 文/光武敏郎
  2. 幕府及び勝元は安芸東部の東西条を領有する大内氏を警戒し、安芸中央部の領主である安芸武田氏毛利氏吉川氏沼田小早川氏を支援していた。大内氏も対抗して竹原小早川氏平賀氏厳島神主家らと手を結び、教弘の代から衝突を繰り返した。広島県、P439 - P443、石田、P186 - P187。
  3. 寛正6年10月22日に幕府は勝元の要請で政弘退治の書状を出したが、翌文正元年7月30日に政弘を赦免している。この赦免後に義敏が3ヶ国の守護に返り咲いていることから、幕府は勝元と宗全に対抗して大内氏と斯波氏を取り込もうとしたとされる。但し、義敏はすぐに家督を追われ、政弘は領国に留まったままになる。石田、P187 - P194。

参考文献

関連項目


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