増田貴光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

増田 貴光(ますだ たかみつ、1939年 - )は、東京府出身の映画評論家。元モデルで、『MEN'S CLUB』に登場したこともある。本名、増田元臣。

経歴・人物

東京本郷の看護婦家政婦紹介所経営者の家庭に生まれる。幼時に父を亡くし、母と姉に育てられた。

慶應義塾大学法学部在学中から増田貴光という筆名で『映画の友』に映画批評を寄稿。「ヴィスコンティの美は禁色にあり」と題するコラムを目にとめた三島由紀夫から手紙を貰い、以後三島と親交を結んだ。のち、1970年に三島が自決すると「ぼくは三島先生に殉死したい」[1]と語ったこともある。

大学卒業後、日本航空に入社するも1年で退社し渡米、南カリフォルニア大学ジャーナリスト科に留学し、アメリカ合衆国の映画情報を日本に送る仕事に携わる。日本に帰国した後、映画評論家としてデビュー。1970年からNET(現・テレビ朝日)『土曜映画劇場』 の映画解説者として人気を博し「第2の淀川長治」と呼ばれ、当時「またあなたとお逢いしましょう!」の決めゼリフがあった。このセリフはもともと人差し指でテレビの前の視聴者を指差すポーズを伴っていたが、和田誠から「あんな気持ち悪い奴に指差されたら腐乱しちゃう」と批判されてこのポーズをやめた経緯がある。TBSベルトクイズQ&Q』などの司会(こちらでも「またあなたと…」のくだりはあった)やTBSラジオパックインミュージック』の初代パーソナリティとしても活躍、『夜の虫』『こころの傷』などレコードまで出すほどの人気を持っていたが、1974年6月に『土曜映画劇場』の解説者を降板、ブラウン管から忽然と姿を消す。その理由について『週刊文春1979年5月17日号では「ハイミナール中毒のせい」と報じられている。

1975年4月6日、当時24歳のミス八王子の女性と見合い結婚。ハワイロサンゼルスサンフランシスコに2週間の新婚旅行を行ったが、性的不能との理由により新妻から不平を申し立てられ、9箇月で破婚。別れ話を巡り新妻の兄と弟から増田が暴力を振るわれたとされる事件を経て、1976年3月31日に増田側から東京家裁に離婚調停と慰謝料請求の申し立てが行われ、1978年1月に離婚が成立。増田は妻に「ぼくは女性とセックスできない体だ」「結婚したのは母親を安心させるため」等と発言したと報道された。

上記の"処女妻騒動"で仕事を失った増田は遊興費にも事欠くようになり、1979年4月には東京都目黒区内の印刷所で「一件消滅書」などと題した書類[2]警視総監国島文彦の印章や総監秘書の名刺を偽造、秘書に成りすまして川口松太郎三益愛子夫妻に接近。汚職殺人以外の前科なら懲罰金130万円を払えば消すことができるとの作り話を持ちかけ、川口夫妻の子息の前科を抹消してやるから金を払うようにと勧誘。しかし川口方を訪ねる直前「警視庁の者」と偽って3回も電話をかけたため川口の家人に怪しまれて警視庁富坂署に通報され、川口たちに会う前に玄関先から任意同行された。取調べの結果、署名偽造と印章偽造で逮捕された上、警視庁の家宅捜索により増田の自宅から覚醒剤と注射器が発見された。このため増田は実刑判決を受けて刑務所で服役した。

この不祥事のため芸能界からは引退を余儀なくされ、出所後は家業の看護婦家政婦紹介所経営を継いで生活している。

関連文献

  • 週刊文春1979年5月17日号「有名になりたかった男 映画解説 増田貴光の"蹉跌"」
  • 週刊女性』1979年5月22日号「増田貴光逮捕! 転落までの暴かれた私生活」
  • 女性自身』1979年5月24日号「増田貴光を逮捕! ああ、性の狂乱の果てに…」
  • 女性セブン』1979年5月24日号「あの"処女妻離婚"の増田貴光が今度は"詐欺未遂"と"覚せい剤"でマスコミ登場!」

脚注

  1. 下川耿史『昭和性相史: 戦後篇』第2巻、p.87。
  2. この「消滅書」は「懲罰金の額は事件の中身によってコンピューターが査定する」などというもので、一見して騙し文句と分る内容だったと『朝日新聞』に報じられた。
テンプレート:Film-bio-stub

テンプレート:Asbox