和田惟政

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足利義昭を救出する惟政(歌川豊宣画)

和田 惟政(わだ これまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将室町幕府末期の幕臣である。父は和田宗立(惟助)。

生涯

近江国甲賀郡和田村(滋賀県)の有力豪族であった。はじめは六角氏および室町幕府13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。

永禄8年(1565年)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、軟禁されていた義輝の弟・覚慶(足利義昭)を仁木義政とともに一乗院より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。越前国朝倉義景尾張国織田信長の援助を得て還俗した義昭が15代将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川山城、のちに高槻城を与えられ、足利義昭からは池田勝正伊丹親興とともに摂津国の守護の1人として任命され「摂津三守護」と称された(『足利季世記』)。

以後、足利幕臣として京都周辺の外交・政治に大きく関与しながら、織田氏家臣としても信長の政治や合戦に関わるという義昭と信長の橋渡し的役割を務めている。特に永禄12年(1569年)10月には、信長に援軍を要請した播磨国赤松氏の援軍として、備前国浦上氏攻めに参加している。

その後、惟政は所用で美濃国にいる信長のもとへ向かう途中、信長から蟄居を命じられた報を受け取る。ルイス・フロイスによれば他に「引見の不許可」「惟政が近江に持っていた城の破壊」「収入のうち2万クルザードの没収」という厳しい処分だった。フロイスはこれを朝山日乗が信長に讒言したためと記しているが、同時期に信長と足利義昭の関係が悪化している事が大きな原因と推測されている(惟政は幕臣)。惟政はこれに剃髪して抗議した。

元亀元年(1570年)、惟政は京で越前攻めに向かおうとしている信長に謁見すると、信長はその地位を回復した。フロイスによれば3万クルザードの俸禄を加増されるなど、非常に厚遇されたという。6月28日の姉川の戦いには織田氏方として参加したようである[1]

11月、多方面に敵を抱える形となった信長は将軍・義昭の権威を利用して六角氏と和睦をしているが、この際に、三雲成持三雲定持宛てに惟政が宛てた書状(福田寺文書)があり、かつて六角氏の影響下で同じ甲賀の土豪であった三雲氏との繋がりから、この六角氏との和睦にも一役買っていたものらしい。

元亀2年(1571年)、松永ら三好三人衆と手を結んだ池田知正を討つため、伊丹氏や茨木氏と共に摂津国白井河原の戦い茨木川畔)で池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死。多くの貫通銃創・刀傷を受けた上、首を取ろうとした相手にも傷を負わせて死んだという、壮絶な最期であった。[2]

惟政の没後まもなく、子の惟長は高山友照右近父子により追放され、まもなく死亡し、和田氏は没落することになる。

惟政とキリスト教

惟政はキリスト教を自領内において手厚く保護したことが、ルイス・フロイスの『日本史』に詳細に書かれている。フロイスが織田信長と会見するときに仲介役を務めたほか、教会に兵を宿泊させないよう他の武士たちに働きかけたり、内裏が伴天連追放の綸旨を出すとそれを撤回させようとしたり、宣教師をむりやりにでも自分の上座に座らせたりと、大変な熱意だったようである。畿内におけるキリスト教の布教にも積極的に協力した。しかし、惟政自身は洗礼の儀式を受ける前に戦死したために、その死をフロイスは大変嘆いた。なお、キリスト教と出会う前は禅宗に属していたといわれる。

墓所は大阪府高槻市伊勢寺享保年間(1716 - 36年)に高槻城を改修したときに墓石が発見され、移されたといわれている。

脚注

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関連項目

  • ただし、この姉川の戦いに参加したとする記録は宣教師の記録にあるのみで、合戦の同日に摂津国内で惟政が出した寺社への禁制の文書(今西文書)が存在する事や、他の公方衆も参戦していない事などから、実際に参加したかどうかは疑わしい。ただ、永禄12年(1569年)10月の浦上攻め後から、元亀元年(1570年)3月まで信長関係の資料に一切登場しなくなるのは事実であり、信長と義昭の対立の中で一時存在を疎まれたのは事実のようである。
  • フロイス日本史より