吉村貫一郎

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吉村 貫一郎(よしむら かんいちろう 天保11年(1840年) - 慶応4年1月3日1868年1月27日))は、新選組隊士(諸士取扱役兼監察方および撃剣師範)。

人物像

吉村貫一郎に関する資料は少なく、その実像はよく分かっていない。盛岡藩出身だが、盛岡藩に吉村貫一郎という人物の記載は無く、嘉村権太郎が本名と推測されている。

北辰一刀流新当流の使い手といわれ、撃剣師範に就いていたが、表立った斬り合いの記録は少ない。屯所移転について西本願寺に交渉しに行ったり、三条制札事件の詫びを目的とした土佐藩の饗応に吉村が出席したりしているが、天満屋事件三浦休太郎の護衛の任についていた時には、とくに吉村が斬り合った記録はない。どちらかといえば、論客として活躍したようである。

慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いに参戦したが、以後の消息は途絶える。御香宮の戊辰東軍戦死者霊名簿には「正月六日淀ニ於テ戦死 諸士調役 嘉村権太郎」とある。また、嘉村家の過去帳には「明治三年一月十五日没」とあるという。

創作における吉村貫一郎

吉村の所伝の多くについては子母澤寛の『新選組始末記』による創作とされ、後に浅田次郎は子母澤の創作を下敷きに、吉村を主人公とした歴史小説『壬生義士伝』を執筆した。これら創作で描かれる吉村の最期は次のとおりである。

鳥羽・伏見の戦いの後、新選組が大阪を離れている事を知った吉村は路頭に迷い盛岡藩邸に帰藩を願う。差配役の大野次郎右衛門は武士にあるまじき行為として切腹を申し付け、盛岡藩邸の中で切腹して果てた。切腹した部屋には、二分金十枚と紙切れが置いてあり、紙切れには家族への送金を願う文が記してあった、という。

ただし、大野次郎右衛門なる人物は架空の人物であることがわかっており、また、妻子も見つかっていない。