天満屋事件

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天満屋事件(てんまやじけん)は、海援隊士・陸援隊士らが京都油小路旅籠・天満屋を襲撃して、紀州藩三浦休太郎を襲い、新選組と戦った事件である。

経緯

陸奥陽之助は、当時有力な佐幕論者であった紀州藩士三浦休太郎が大垣藩井田五蔵らと共謀して京都にて不穏な動きをしていること、また坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺(近江屋事件)の黒幕が、いろは丸沈没事件の際に多額の弁償金を龍馬に支払わされた恨みを持つ紀州藩であるとの話を聞き、紀州藩公用人であった三浦休太郎を討つことを海援隊士・陸援隊士らと計画する。危険を感じた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦の警護を依頼した。天満屋で三浦休太郎の護衛に新選組の斎藤一大石鍬次郎ら7名がついた。

慶応3年12月7日1868年1月1日)、海援隊・陸援隊士ら総勢16名(15名とも)が、三浦休太郎、新選組隊士らが天満屋2階にて酒宴を行っていたところを襲った。出会い頭に十津川郷士中井庄五郎が「三浦氏は其許か」というなり斬りつけ、三浦休太郎は頬頤を負傷する。その後、両者は入り乱れるが、燈火を消し、暗闇での戦闘となる。斎藤は後から斬りかかられ、命を落としそうになったが、梅戸勝之進(平隊士)が斎藤を守った。変を聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かったものの、着いた頃には陸奥らは素早くその場を引き揚げていた。

この事件で、襲撃側は中井庄五郎が死亡、2、3名が負傷した。一方の新選組は宮川信吉舟津釜太郎が死亡、重傷1名、負傷者3名を出し、紀州藩では三浦が頬頤に傷を負い、三宅精一、関甚之助も軽傷を負った。

京都市下京区油小路正面の跡地には石碑が建てられている。

事件を題材にした作品

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