古賀稔彦

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古賀 稔彦(こが としひこ、1967年11月21日 - )は、日本柔道家(七段)。環太平洋大学教授弘前大学博士(医学))。

佐賀県三養基郡北茂安町(現・みやき町)出身。1992年バルセロナオリンピック柔道男子71kg級金メダリスト。血液型はA型。身長169cm[1]

人物

世田谷学園高等学校日本体育大学卒業。日本体育大学助手、全日本柔道女子強化コーチ(2005年11月末退任)を経て、2007年から環太平洋大学体育学部体育学科教授兼女子柔道部総監督。古賀塾塾長、全日本柔道連盟女子強化委員。弘前大学大学院医学研究科後期博士課程修了。学位は博士(医学)日本健康医療専門学校校長。

常に一本を取りに行く柔道と、小柄な体からの切れ味鋭い技の数々、豪快な一本背負投が得意技であることから「平成の三四郎」の異名をとった。

来歴

柔道を習っていたの影響で小学1年生から柔道を始め、中学1年で上京。柔道私塾講道学舎に入門する。世田谷区立弦巻中学校から世田谷学園高等学校日本体育大学体育学部武道学科に進み、在学中はそれぞれ数々のタイトルを獲得、怪我を克服しながら順調に成長する。

1988年ソウルオリンピックでオリンピック初出場するも、3回戦で敗退[1]

1990年、当時75kg前後という軽量にもかかわらず体重無差別の全日本柔道選手権大会で重量級の選手を次々と撃破し、決勝進出。決勝で当時最重量(95kg超)級の世界チャンピオンだった小川直也と対戦、足車にしとめられ、惜しくも準優勝。古賀の回顧によれば「柔道の試合で自分の体が宙に飛んだのはあれが生まれて初めて」だという。

1992年、バルセロナオリンピック選手団主将を務める。バルセロナオリンピック直前に吉田秀彦との乱取り中に左膝を負傷。ひざの痛みに加え、運動できないことにより減量も思うようにならない困難を乗り越え、痛み止めを打ちながら金メダルを獲得した[1]TBSテレビは、年末のスポーツ名場面ベスト100の第2位にこの金メダルを選んでいる(1位は同じバルセロナオリンピックにおける女子100m平泳ぎにおける岩崎恭子の金メダル)。

1996年、アトランタオリンピック選考会では一本負けを喫したが、過去の実績から選出された。決勝まで進んだが、ジャメル・ブーラに敗れ銀メダル[1]

2000年、現役を引退し指導者になり、全日本女子柔道チーム強化コーチを務める。そのかたわら、2003年4月からは子供の人間育成を目的とした町道場「古賀塾」を神奈川県川崎市高津区に開塾。コーチとして2004年アテネオリンピックでは愛弟子である谷本歩実が金メダルを獲得、谷本が古賀に抱きついて喜ぶ場面が放映された。

2005年8月、24時間テレビ 「愛は地球を救う」日テレ)の企画“百人掛け”を実施、72人で終了した(72勝0敗)。脱水による全身痙攣でドクターストップ。最後の相手は兄だった。 2007年4月からは岡山県岡山市にある環太平洋大学柔道部の総監督に就任。

2008年2月13日、明治時代に活躍した徳之島出身の徳三宝を称える歌「柔道一代 徳三宝」でCDデビューを果たした。

2008年6月、東京都台東区浅草橋にある日本健康医療専門学校の校長に就任。同年、弘前大学大学院でスポーツ医学研究を始め、2012年3月に博士(医学)の学位を取得。

主な戦績

71kg級での戦績

78kg級での戦績

81kg級での戦績

脚注

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受賞

関連項目

外部リンク

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