北辰電機製作所

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北辰電機製作所(ほくしんでんきせいさくしょ、テンプレート:Lang-en-short)は、かつて存在した工業計器及びプロセス制御専業メーカー大手。東証一部上場。業界第3位。住友グループ。本社と主力工場は東京都大田区下丸子にあった。

概要

1912年に科学者長岡半太郎の助手・清水荘平により創業。艦船に搭載する機器、戦闘機に搭載する航空機器等軍需産業に強く戦時中に急成長、横浜山下公園に係留保存されている氷川丸羅針盤,戦艦大和零式艦上戦闘機に搭載される計器類を製作。戦時中は2万人の従業員を抱えた。軍需においては、「Hokushin」ブランドは有名で敗戦までは、計器メーカーとしては業界首位であったが、軍需への依存度が高かったことや、戦災の被害が大きく、戦後は業界3位に甘んじることになる。

戦後は業界の中でも逸早くコンピュータ分野に進出した。独自にリレーによる自動装置(データロガー)に取り組んだのと、初期のコンピュータでよく使われた磁気ドラムメモリに必要な高速回転体の技術がジャイロコンパスから転用できるだろうということで、電気試験所から白羽の矢が立ったのである。科学計算用や事務用などといった大メーカーと競合する分野ではなく、プロセスオートメーション用コンピュータHOCを開発し[1]、同分野の先駆となる。主に鉄鋼石油業界に強かった。戦後、米国の反応を憂慮し、防衛産業に再参入する際は、「Hokushin」ブランドの使用をやめ、子会社として日本電子機器(現・横河電子機器)を設立。1983年、専業メーカーの生き残りをかけ横河電機との統合を決断。横河北辰電機となった。

工業計器・プロセス制御の分野では従前より専業優位の業界であったが、1980年代、NEC東芝等の重電大手が、この分野への参入を打ち出し、業界首位の横河がもっとも危機感を募らせていた。北辰は、同じ住友グループのNECとの統合計画があり、その話が具現化する前に、横河が先手を打って北辰を説き伏せ、統合にこぎつけた。最終的に、北辰の清水正博社長と、横河の横河正三社長の創業家出身のトップ会談により、合併を決断。これにより、新会社・横河北辰電機は、中堅メーカから脱し、大手メーカーの仲間入りを果たした。

合併後、旧本社・工場は、横河北辰電機・下丸子工場として操業を続けたが、1985年に甲府工場と統合し、跡地はキヤノンに売却された。1986年、横河北辰電機はCIを実施し、横河電機と社名変更し、旧横河のブランド「YEW」とともに北辰の名も消滅し、「YOKOGAWA」という新ブランドになった。

社風は、学歴偏重の傾向があり、有名国立大学や上位私立大学の学生を採用していた。また、従業員をマサチューセッツ工科大学カーネギーメロン大学等に留学させるなど、社員教育にも熱心であった。横河と合併の際、当時の横河は北辰の高い技術力と、優秀な人材を取り込むメリットを挙げていたほどである。

なお、北辰には兄弟会社として北辰化学工業(後の北辰工業)があったが、こちらは横河との合併の影響をうけず、独立して存続した。しかし、近年、創業家の清水家が株式を売却し、現在はNOKの傘下に入り、シンジーテックとなっている。

合併時に同社オーナーであった清水正博(荘平の長男、合併後は副社長。2008年に他界するまで横河電機相談役をつとめた)により、合併の株式交換により得られた横河電機の株式を原資に母校である早稲田大学に多額の寄付がなされ、西早稲田キャンパスに「清水正博記念館」(14号館)が建設されたことでも話題になった。

  1. 北辰コンピュータの歴史(PDF)

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