北条基時

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テンプレート:基礎情報 武士 北条 基時(ほうじょう もととき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門の武将。鎌倉幕府の第13代執権(在職:正和4年7月11日1315年8月11日) - 正和5年7月9日1316年7月28日))である。

生涯

執権就任以前

父は普恩寺流北条時兼。子に最後の六波羅探題北方となった北条仲時がいる。

正安3年(1301年)6月7日に六波羅探題北方として上洛する[1]乾元2年(1303年)10月20日、六波羅探題職を辞職し、鎌倉に戻り評定衆に列する(評定衆になっていない説もある)[1]嘉元3年(1305年)8月22日、引付衆に列する[1]延慶3年(1310年)、信濃守護に任命された[1]

第13代執権就任

正和4年(1315年)7月11日に先代の執権であった北条煕時が病で執権職を辞任したため、後任の執権として就任した[1][2](煕時とは7代執権北条政村を曽祖父に持つ点で共通しており、血縁的にはとこの関係にあった)。7日後の7月19日に正五位下相模守に転ずる[1]。だが、幕政の実権は内管領長崎高資に握られていた[1]

正和5年(1316年)になると得宗家の北条高時を執権に就けるための準備が行なわれ[3]、この年の7月9日に得宗北条高時に執権職を譲り、11月20日に出家する[1]。以後は一線から離れたようで中央政界に活動の様子は無い[1]

最期

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐天皇の倒幕計画から元弘の乱が起こり鎌倉幕府に反旗を翻した新田義貞らが上野で挙兵して鎌倉に攻め上ってくると、金沢越後左近大夫将監や安房上野下野御家人らと共に化粧坂の守備を務めた[4]。基時はよく防衛したが5日間の激戦の末に極楽寺坂巨福呂坂など別の攻め口から突破した新田軍が鎌倉市街に侵入したため[5]、この合戦の2週間前に近江番場で自害した嫡子の仲時の後を追うように残った部下と共に自害した[1][6]。享年48。

辞世の句は「待てしばし、死出の山辺の、旅の道、同く越て、浮世語らん」であり、この歌は先に自刃した仲時の事を思って詠じたと言われる[1]

経歴

※ 日付=旧暦

  • 1299年(正安元年)11月4日、従五位下左馬助に叙任。
  • 1301年(正安3年)6月7日、幕府の六波羅探題北方と就る。
  • 1303年(嘉元元年)10月20日、六波羅探題退任。
  • 1304年(嘉元2年)6月6日、越後守に転任。8月25日、従五位上に昇叙。越後守如元。
  • 1305年(嘉元3年)8月22日、三番引付頭人と就る。
  • 1306年(徳治元年)2月21日、讃岐守に遷任。
  • 1308年(延慶元年)11月8日、正五位下に昇叙。讃岐守如元。
  • 1309年(延慶2年)3月15日、四番引付頭人に異動。
  • 1310年(延慶3年)2月18日、三番引付頭人に異動。
  • 1311年(応長元年)10月25日、二番引付頭人に異動。
  • 1313年(正和2年)7月16日、二番引付頭人を辞す。
  • 1314年(正和3年)9月21日、讃岐守を辞任。
  • 1315年(正和4年)7月11日、執権と就る。7月26日、相模守に任官。
  • 1316年(正和5年)7月9日、執権を辞す。11月19日、出家。法名:信忍。
  • 1333年(元弘3年)5月22日、自害。享年48。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料

テンプレート:Navbox テンプレート:六波羅探題

テンプレート:普音寺流北条氏当主
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.555
  2. 『金沢貞顕』〈人物叢書〉79頁。
  3. 『金沢貞顕』〈人物叢書〉79頁。
  4. 『金沢貞顕』〈人物叢書〉147頁・148頁。
  5. 『金沢貞顕』〈人物叢書〉150頁。
  6. 『金沢貞顕』〈人物叢書〉148頁・150頁。