八正道

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テンプレート:Sidebar テンプレート:七科三十七道品 八正道(はっしょうどう、テンプレート:Lang-pi-short, アリヤ・アッタンギカ・マッガテンプレート:Lang-sa-short, アーリヤ・アシュターンギカ・マールガ)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから「聖道」(テンプレート:Lang-sa-short)と言う。

初期仏教においては、この「八正道」のみを単独で取り出すことはなく、パーリ語経典長部の『大般涅槃経』等で釈迦自身も述べているように[1]、「七科三十七道品」の一部(一科)として扱う(位置付ける)のが基本である。

正見

「正見」(しょうけん、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・ディッティテンプレート:Lang-sa-short, サンミャグ・ドリスティ)とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。

  • 業自性正見[2](kammassakatā sammā‑diṭṭhi)[3] - 業を自己とする正見。
業は自己の所有するものである(kammassaka)
業は相続するものである(kammadāyāda)
業は(輪廻的生存の)起原、原因である(kammayonī)
業は親族である(kammabadhū)
業は依り所である(kammapaṭisaraṇa)
  • 十事正見(dasavatthukā sammā-diṭṭhi)[3]
atthi dinnaṃ - 布施の果報はある
atthi yiṭṭhaṃ - 大規模な献供に果報はある
atthi hutaṃ - 小規模な献供に果報はある
atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko - 善悪の行為に果報がある
atthi mātā (善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)
atthi pitā (善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)
atthi sattā opapātikā - 化生によって生まれる衆生は存在する
atthi ayaṃ loko - 現世は存在する
atthi paro loko - 来世は存在する
atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti
  • 四諦正見(catusacca sammā-diṭṭhi)[3]
dukkhe ñāṇaṃ 苦諦についての智慧
dukkha-samudaye ñāṇaṃ 苦集諦についての智慧
dukkha-nirodhe ñāṇaṃ 苦滅諦についての智慧
dukkha-nirodhagāminiyā paṭipadāya ñāṇaṃ 苦滅道諦についての智慧

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである。正見は「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。 八正道は全て正見に納まる。

正思惟

正思惟(しょうしゆい、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・サンカッパテンプレート:Lang-sa-short, サンミャク・サンカルパ)とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出離(離欲)を思惟する」とはパーリの原文では「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saṅkappa)であって、「nekkhamma」とは世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟である。

  • 出離思惟(nekkhamma saṅkappa)
  • 無瞋思惟(abyāpāda saṅkappa)
  • 無害思惟(avihiṃsā saṅkappa)

正語

正語(しょうご、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・ヴァーチャーテンプレート:Lang-sa-short, サンミャグ・ヴァーチュ)とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることである。

正業

正業(しょうごう、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・カンマンタテンプレート:Lang-sa-short, サンミャク・カルマーンタ)とは、殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。

正命

正命(しょうみょう、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・アージーヴァテンプレート:Lang-sa-short, サンミャグ・アージーヴァ

「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。簡潔にいえば、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って、人として恥ずかしくない生活を規律正しく営むことである。

正精進

「正精進」(しょうしょうじん、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・ヴァーヤーマテンプレート:Lang-sa-short, サンミャグ・ヴィヤーヤーマ)とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することである。

正念

正念(しょうねん、テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・サティテンプレート:Lang-sa-short, サンミャク・スムリティ) 四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」(しょうねん、samyak-smrTi, sammaa-sati)である。

正定

正定 (しょうじょう, テンプレート:Lang-pi-short, サンマー・サマーディテンプレート:Lang-sa-short, サンミャク・サマーディ) 正しい集中力(サマーディ)を完成することである。この「正定」(しょうじょう、samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。

脚注

  1. 『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』 中村元 岩波文庫 第3章50-51 pp. 100-102
  2. 人間の本質について (性善説・性悪説とは)- バッダンタ ニャーヌッタラ長老
  3. 3.0 3.1 3.2 The Manual of the Constituents of the Noble Path by Mahathera Ledi Sayadaw

関連項目