光緒帝

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光緒帝(こうしょてい、こうちょてい)はの第11代皇帝である。載湉(湉はさんずいに恬)。廟号徳宗(とくそう)。在世時の元号光緒を取って光緒帝と呼ばれる。

生涯

道光帝の第7子醇親王の第2子として生まれる。母は西太后の妹である。同治帝が早世した後に権力保持を狙う伯母の西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。

同治10年(1871年)のイリ問題、光緒2年(1876年)の琉球失陥、光緒11年(1885年)の清仏戦争によるベトナムへの影響力喪失、光緒20年(1894年)の日清戦争による朝鮮への影響力喪失など、相次ぐ自国の不甲斐なさを光緒帝は嘆き、国勢回復を切望するようになった。それゆえ康有為梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり、西太后の傀儡から脱し、自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。光緒24年(1898年)に光緒帝は体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)。しかしあまりにも急進的な改革に宮廷は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。

西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。西太后は先手を打ってクーデターを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。

西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、列強の反対にあい光緒帝の廃位は断念した。

義和団の乱が勃発し8ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びた。その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。列強との交渉で、事件の処分は直接首謀者だけに限られ、北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導で、かつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。

光緒34年(1908年)に崩御。清西陵に陵墓がある。

死にまつわる謎

死因については毒殺説と自然死説の両方が存在し、当時から砒素で毒殺されたという噂があった。

1980年の光緒帝の陵墓発掘の際の遺体調査では頸椎・毛髪いずれにも中毒の痕跡を見出せず外傷も存在しなかったこと、光緒帝に関するカルテ及び薬品の処方といった史料が現在も故宮に残されており書籍も出版されていることなどから、病死の可能性が濃厚と考えられてきた。

しかしながら2003年より中国の国家清史編纂委員会、原子力科学研究院などから成るプロジェクトチームが結成され死因の調査を行った結果、2007年に頭髪に集中して通常の1000~2000倍の砒素が検出されたと報道され[1]「これこそ一度に大量の砒素を投与された証拠だ」とし、再び砒素による毒殺の可能性がクローズアップされてきた。

その後も調査を進め光緒帝の遺髪や衣服などを調査した結果、致死量をはるかに上回る猛毒の三酸化二砒素が検出された。毒の残留状況や文献記録などから慢性中毒ではないとして委員会は2008年、光緒帝の死因は急性胃腸性砒素中毒であり毒殺されたものと結論付けた[2][3]。研究の成果は、編纂中の清史に反映される予定。

犯人についてはいくつかの説があり、主なものを以下に列挙する。だが、いずれの説にも証拠はなく、また共謀している可能性も考えられるものの、真相は明らかになっていない。

西太后犯人説
『崇陵伝信録』及び『清稗類鈔』等が唱える。死去直前の西太后が毒殺を命じたという説。西太后と光緒帝の死亡時間が近いのは、自分の死期を悟った西太后が、自分よりも光緒帝を長生きさせないために毒殺したから、という論理である。
袁世凱犯人説
溥儀(宣統帝・ラストエンペラー)の自伝『わが半生』等が唱える。かつて戊戌変法で光緒帝を裏切った袁世凱にとって、西太后が死去して光緒帝が復権することは、自身への報復を意味していた。一説には、光緒帝は死去する前に「袁世凱を討つべし」という遺勅を残していたという。西太后の死期が近いという情報を知った袁世凱が、宦官を利用し、先手を打って光緒帝を暗殺した、という論理である。『わが半生』の中で溥儀は、古くから宮廷に仕える李長安という宦官から聞いた話として「光緒帝は直前までは元気だったが、袁世凱からの贈り物の後に急激に体調が悪化した」と記している[4]
李蓮英犯人説
『慈禧外伝』及び徳齢の『瀛台泣血記』等が唱える。長年西太后に仕えていた宦官の李蓮英が毒殺したという説。西太后の死去で自らの後ろ盾を失い、報復されるのを恐れて暗殺したという論理である。通訳として宮廷に仕えていた徳齢などは、西太后の威を借り横暴を究めていた李蓮英が、光緒帝の復権により報復を受けることを恐れて光緒帝を殺害したとしている。復権した光緒帝からの報復を恐れる、という点では、袁世凱説と似ている。
その他毒殺説
『逸経』等にある、侍医が毒殺したという説など。

后妃

  • 孝定景皇后(同治7年(1868年) - 民国2年(1913年))。西太后の弟桂祥の娘で、西太后の姪にあたる。選秀女に参加して入選し、1889年に光緒帝の皇后に立てられる。西太后と光緒帝が対立したため、光緒帝に疎まれ夫婦仲はよくなかったという。溥儀が宣統帝として即位すると嫡母となり、隆裕皇太后と徽号される。辛亥革命では清朝内部で主戦派と和平派の論争が起きるが、最終的には隆裕皇太后が和平派に傾き、皇帝退位の決断をした。そのため民国時代には、古代に禅譲した帝王にたとえられ、「女の中の尭舜」と呼ばれた。1913年2月に死去した際には民国政府から国葬級の待遇を受け、大規模な国民哀悼会が開催された。また、棺を西陵に埋葬する際には、多くの民国政府の官僚が西陵まで参列した。諡号は孝定景皇后。西陵の崇陵に光緒帝とともに葬られている。隆裕の本名については西太后#西太后の本名についてを参照
  • 端康皇貴妃(同治13年(1874年) - 民国13年(1924年)):タタラ(他他拉)氏の長敘の娘。妹とともに選秀女に参加して入選。瑾嬪となり後に瑾妃に進む。妹珍妃が西太后の怒りにふれたため、一時期貴人に落とされるが、後に瑾妃に復帰。溥儀が即位すると皇考瑾貴妃と尊称された。民国年間には端康皇貴妃の徽号が送られた。いわゆる四太妃の1人。隆裕皇太后の死後は、実家が袁世凱に賄賂を贈ったために四太妃のなかで主導的地位につき、紫禁城の奥向きを取り仕切った。溥儀の『わが半生』によると、少年時代の溥儀の生活に干渉したため煙たい存在だったようだ。1924年死去。諡は温靖皇貴妃。
  • 恪順皇貴妃(光緒2年(1876年) - 26年(1900年)):タタラ(他他拉)氏の長敘の娘で瑾妃の妹。姉とともに選秀女に参加して入選。珍嬪となり後に珍妃に進む。光緒帝に最も寵愛された妃という。一時期、西太后の怒りにふれ、政治に口出しをし賄賂を受け取って官職を売ったとして貴人に落とされるが、後に珍妃に復帰。戊戌政変では再び西太后の怒りにふれ、紫禁城内の一室に幽閉される。義和団の乱で8ヶ国連合軍が北京を占領した際、西太后らとともに西へ逃げることを拒否したため西太后の怒りにふれ、宦官に井戸に突き落とされて殺害された。翌年西太后らが北京に戻るとようやく井戸から引き上げられて葬儀が行われ、恪順皇貴妃の諡号が送られた。清朝の公式発表では、8ヶ国連合軍が迫り節を守るために自殺したとされている。瑾妃、珍妃姉妹の墓は西陵の崇陵の妃園寝にある。

脚注

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関連事項

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  2. テンプレート:Cite news
  3. 清朝末期の光緒帝、死因はヒ素中毒…中国各紙伝える 読売新聞(2008年11月3日)
  4. 溥儀『我的前半生』群衆出版社、1964年、20-21頁。邦訳は小野忍ほか訳、『わが半生:「満州国」皇帝の自伝』筑摩書房、1977年。