候文

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候文(そうろうぶん)は、日本語のうち、中世から近代にかけて用いられた文語文体の一つである。文末に丁寧の助動詞「候」(そうろう、そろ、歴史的仮名遣いではサウラフ)を置く。

歴史

「候」(古くはサモラフ、サブラフなど)は、元来、貴人の傍に仕える意の動詞であったが(「さむらい」もこれに由来)、平安時代に「居り」の謙譲語、さらに丁寧を表す助動詞に転じた。平安末期には現代語の「ですます体」のように口語で盛んに用いられたらしい(『平家物語』の語りの部分に多くの用例がある)。

鎌倉時代には文章としても書簡などに用いられ、文語文体として確立した。室町時代には謡曲)の語りの文体としても用いられた。この頃には、口語としては廃れたらしい(ただし「です」は「にて候」に由来するとされる)。

しかし、文語としてはさらに普及し、江戸時代には、公文書・実用文などのほとんどをこの文体が占めた。

文書の種類

  1. 幕政関係・藩政関係の公的文書
  2. 農村・漁村・都市関係文書
  3. 産業・交通・商業・貿易関係文書

以上のような、ほとんどあらゆる分野にわたって、下達・上申・互通[1]の関係にある文書が、「候文」の形で存在する[2]

江戸期の「候文」の特徴は、使われる文字と文体である。何らかの目的を持って、相手に自分の意志を伝えるために書かれたものが多い(たとえば書簡の文など)[3]。使われる文字は、漢字の行草書・異体字・変体仮名・行草書の漢文の助辞・ひらがなカタカナ合字など(「くずし字」参照)。

さらに、明治時代のみならず、昭和初期においても、一部の私的な書簡[4]や外交文書[5]などに用いられた。講談社吉川英治全集」の「書簡集」の巻(1984年)によれば、収録されている書簡で候文のものは1954年(昭和29年)が最後である(吉川はこの頃皇居に招かれているがその件での入江相政への礼状は口語体である)。

なお、信書にも候文が使われていたため、現在でも企業等において「致し度」や「為念」などの候文由来の文体が使われている。

特徴

文体の特徴は、日本語の語順で語彙が並ぶ文章に、漢文に由来する定型の「返し読み」を混ぜて書かれたことである。文末に「候」を使うので「候文」の名がある。濁点句読点はない。

返読文字の例:助動詞では、如(ごとし)、不(ず)、為(す・さす・たり)、令(しむ)、可(べし)、被(る・らる)など。動詞、助詞、その他もある。

戦後の国語改革ですべて「ひらがな」で表記することになった、接続詞副詞代名詞・助動詞などの多くが、漢字またはその略体(「候」を点・簡略記号ですませる)で表記される。

  • 接続詞 「あるいは」(或者)、「しかれば」(然者)、「なおまた」(尚又)、「もっとも」(尤)、「または」(又者)など
  • 副詞 「いささか」(聊)、「いまもって」(今以)、「いよいよ」(弥)、「かねて」(兼而)、「もし」(若)など
  • 代名詞 「この」(此)、「これ」(之・是)、「その」(其)、「それ」(夫)など
  • 助動詞 「そうろう」(候)、「なり」(也)、如(ごとし)、不(ず)、為(す・さす・たり)、令(しむ)、可(べし)、被(る・らる)など[6]

「送り仮名・助詞に該当する部分」に変体仮名(漢字行草書含む)・平仮名・片仮名・合字、さらには行草書の漢文助辞が使われるが、公式文書に近いほど、仮名部分がなく、漢文調である。さらには書き手や文書の性質によって、漢字と仮名などの使い方はまちまちである。また女性手紙に仮名使用が多いのはもちろんだが、男性でも、私的文書・内輪向けの文書は、仮名が多い傾向が認められる[7]

行政司法などの公式文書以外に、書状・商用文・記録・日記・証文・関所手形・宗門手形・共同生活に関わる文書に至るまで、かなりの文献がこの「候文」様式である。普段使っている話し言葉に関係なく、書く文章に使われた文語文は、方言による意思疎通の困難を克服するという意味では、非常に便利に使われた全国的様式だった[8]

文例

  • 村々廻状

以下の文は、幕末皇女和宮親子内親王降嫁の際の村々廻状である[9]テンプレート:Quotation

  • 法令・慶応三年第十三

これは、王政復古の大号令に関する法令・慶応三年第十三(慶応三年十二月九日発布)の後半の一部抜粋である[10]。(当時の法令は、候文により表記された。)

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  • 現代語訳:「旧弊一新につき言論の道を広く開くこととなったので考えがあるものは身分にかかわらず忌憚なく上申せよ。また、人材登用を急務とするので心当たりの人物がいれば早々に推薦せよ」

脚注

  1. 浅井潤子編『暮らしの中の古文書』吉川弘文館
  2. 荒井英次編『近世の古文書』小宮山書店、昭和44年
  3. 候文を使用した書簡の例として例えば『芭蕉書簡集』萩原恭男 校注、岩波書店(岩波文庫)1976年がある。
  4. 野村泰治『作法・文範・現代作文大辞典』金竜堂書店、1934年(昭和9年)、2頁,ここで著者は、書簡文は、候文でも、口語体でもいずれも差し支えないと述べて、多くの候文の文例を記載している。
  5. 社団法人・同盟通信社『時事年鑑・昭和14年版』1938年(昭和13年),189~190頁,これらの頁には、「ロンドン海軍条約による主力艦及巡洋艦の建艦制限の遵守の保障に関する英国大使・対日通告文」および、それに対する「帝国政府・回答文」がいずれも「候文」で書かれている。
  6. 林英夫監修『おさらい古文書の基礎・文例と語彙』柏書房
  7. 日本歴史学会編『演習古文書選』吉川弘文館
  8. 「方言と候文」に関しては五十嵐力他監修『手紙講座第1巻』平凡社、昭和10年より。言文一致運動から来た口語体に対して、昔の「候文」の由来を懐古する文である。 「江戸時代の自由交通厳禁のために、地形上すでにあまたの方言があったところへさらに拍車がかかり、他藩人相互間では南蛮鴃舌(なんばんけきぜつ)としか聞こえない方言が多くなった。その結果他藩の人士との談話がほとんど不通になり、江戸詰めの際などにはどうにもならないという結果になった。そこで当時士人の間に流行していた謡曲(鎌倉時代の文)詞章や、全国的に普及していた往来物などの口調を借りて用を足したことから、発生し、慣用し来たったものが、候文体である。戊辰の役に、薩摩人が会津城を攻めた時、道案内にと呼び出した神官との間に、どうしても話が通じない。思案の末、謡曲のことを思い出し、シテとワキとの掛け合いよろしく問答を進め、やっとうまく行ったという逸話がある(後の西南戦争の有名人、桐野利秋の話だそうだ)。」(南蛮鴃舌=外国人や鳥の「もず」の鳴き声、転じて外国人のわからない言語)
  9. 吉田豊編『大奥激震録』柏書房
  10. 書下し文の出典。板垣退助監修『自由党史(上)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、37頁。原文は「近代デジタルライブラリー法令全書慶応3年」で検索。2012年8月23日閲覧。(10/383頁)。

関連項目

外部リンク