佐藤義亮

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佐藤 義亮(さとう よしすけ(ぎりょう)、明治11年(1878年2月18日 - 昭和26年(1951年8月18日)は、新潮社の創立者。雑誌「新潮」を発行した。哲学館(現在の東洋大学)夜間部卒。

来歴・人物

明治11年(1878年)に秋田県仙北郡角館町(現・仙北市)に佐藤為吉、とく夫妻の四男として生まれる。両親は荒物屋を営み、彼の幼名は儀助であった。父親の為吉は商人には珍しく読書好きな人物で、熱心な仏教徒だった。義亮は明治16年(1883年)小学校に入学、優等生で二段進級を許された年もあった。14歳で高等小学校を卒業すると奉公に出されることになっていたが、向学心に燃える義亮は進学の許しを父に幾度と無く請い、為吉は仕方なく官費の師範学校ならばと進学を許可した。師範学校は18歳でなければ入学できないので大曲の小学校長浅沼正毅の家に書生として住み込み、続いて秋田の積善学舎に入学した。月五円五十銭の学費その他を父は賄えず、一部は姉の嫁ぎ先から支援してもらった。

日清戦争前夜のその頃、学問を志していた義亮は文学に夢中になり、博文館の投書雑誌『筆戦場』に投稿を繰り返した。明治28年(1895年)3月に義亮は積善学舎を辞め上京する。上京した義亮は秀英舎(現大日本印刷)の職工の仕事に就き、夜は勉学に励んだ。ある日義亮の投稿文の載った雑誌が工場の支配人の目にとまり、彼は校正係に抜擢される。肉体労働から好きな文字や文章を扱う仕事に移り彼の心にはいつしか出版事業を行おうという夢が芽生えていった。

出版の資金を捻出する為の耐乏生活で貯金を行ったが、その様子を見かねた秀英舎印刷部長の夫人である荻原雪が資金援助をしてくれた。そうして明治29年(1896年7月10日、『新声』を創刊する。菊判41ページ、定価5銭。800部の印刷だったが完売した。同誌の3号からは「文界小観」という批評欄で硯友社派に対する批判を行い、尾崎紅葉の怒りを買い、紅葉は新声社員に会うことはなかったという。

昭和26年(1951年)8月18日、73歳で死去。

孫は新潮社第3代社長の佐藤亮一

参考文献

  • 高橋秀晴『出版の魂 新潮社をつくった男・佐藤義亮』牧野出版 2010年

関連項目・人物

外部リンク