伊藤盛正

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伊藤 盛正(いとう もりまさ、? - 元和9年(1623年))は、安土桃山時代大名伊藤盛景の子。諱は盛宗とも。長門守。

慶長4年(1599年豊臣氏の家臣で父・盛景の死後、家督を継いで美濃国大垣城を領した(3万4000石)。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、西軍に与し、居城の大垣城を本陣にしたいと石田三成より要請があり、一旦は拒絶をしたが、城を明け渡し、美濃国今村城に退去している。本戦では、松尾山城に陣していたが小早川秀秋によって追い出され、後に関ヶ原本戦にも参加した。戦後、盛正は改易され没落した。その後、京都で浪人をしている時、徳川家康に見つかり殺されそうになったところを福島正則の懇願により助けられ、正則の領地・広島で15年程滞在した。そして合戦から20年後、元和6年(1620年)頃、加賀国へ移り前田氏に仕えている。後に禄高2000石。「利」の文字を同藩前田家から授かり伊藤図書頭利吉と改名、同家に厚遇された。加賀藩を頼ったのは、盛正の父盛景と前田利家織田信長の家臣時代、同じ馬迴衆だったことの縁による。盛正の正室も利家の養女を迎え入れている。

元和9年(1623年)3月、死去した。菩提寺は金沢市の松月寺。