伊庭八郎

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テンプレート:基礎情報 武士 伊庭 八郎(いば はちろう、天保15年(1844年) - 明治2年5月17日1869年6月26日))は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての武士幕臣秀穎(ひでさと)。隻腕剣客として知られる。

生涯

天保15年(1844年)、伊庭秀業の長男として江戸に生まれる(天保14年(1843年)生まれという説もある)。「幕末江戸四大道場」の一つに数えられる御徒町の剣術道場「練武館」を開いた心形刀流宗家・伊庭家の御曹司(ただし、伊庭家では実力のある門弟が養子となって流儀を継承することが多い)にあたる。

幼少の頃は剣術よりも漢学蘭学に興味があり、剣術の稽古を始めたのは遅くなってからだったが、次第に頭角を現し“伊庭の小天狗”“伊庭の麒麟児”と異名をとるようになる。元治元年(1864年)、江戸幕府に大御番士として登用されると直ぐに奥詰(将軍の親衛隊)となる。幕臣師弟の武術指導のための講武所がつくられると教授方を務めた。

慶応2年(1866年)に奥詰が改編され遊撃隊となると、八郎も一員となる。慶応3年(1867年)10月、遊撃隊に上洛の命令が下り江戸を出立、将軍を護衛して大坂に下った後に伏見に布陣。翌4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いが勃発するが、新政府軍に敗れて江戸に敗退する。

江戸帰還後、遊撃隊の一部と共に木更津に行き、請西藩主・林忠崇に協力を要請する。協力に応じた請西藩士を含んだ遊撃隊は、前橋藩が守備する富津陣屋を無血開城させて武器弾薬を接収した後、房総半島館山から出帆し、相模真鶴に上陸。その後、伊豆韮山 - 甲府 - 御殿場-甲州黒駒-沼津と転陣、途中で加盟する者も多数有ったので沼津滞陣中に遊撃隊を再編成し、八郎は第二軍隊長となる。彰義隊上野戦争を始めるとこれに呼応。新政府軍の江戸入りを阻止するため、箱根の関所を占拠しようとして小田原藩兵と戦闘となる。一時は和睦が成立したものの、再び敵対した小田原藩と箱根山崎で戦いが起こり、三枚橋で小田原藩士・高橋藤五郎(鏡心一刀流)に左手首の皮一枚を残して斬られた。このため、以後、左手は不自由となった。江戸退却の後、八郎などの離脱者を除いた遊撃隊士は林らに率いられて奥州へ。八郎は怪我の治療を受けた後に榎本武揚率いる旧幕府脱走艦隊に投じ蝦夷地へ向けて出帆する。ところが、銚子沖で乗船「美賀保丸」が座礁し、救出された八郎は友人らの協力を得て横浜からイギリス艦で箱館へ向かうこととなった。

箱館に到着後、旧幕軍役職選挙で、歩兵頭並、遊撃隊隊長となる。隻腕で有りながらも幕軍を率いて徹底抗戦を続けるが、木古内の戦いで重傷を負う。箱館病院で治療を受けるが既になす術も無く、五稜郭開城の前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み干し自決した。享年26。命日は墓碑には5月12日と刻まれているが、田村銀之助の話から5月16日~17日とする説が有力である。墓所は東京都中野区の貞源寺。法名は秀院清誉是一居士。

俳句・短歌

「朝涼や 人より先へ 渡り舟」(『征西日記』の中に登場する俳句)
「其の昔 都のあとや せみしぐれ」(『征西日記』の中に登場する俳句)
「あめの日は いとど恋しく 思ひけり 我良き友は いずこなるらめ」(横浜にて潜伏中に詠んだ短歌)
「まてよ君 冥土も共にと 思ひしに 志はしをくるる 身こそ悲しき」(辞世の句とされているが、戦死した親友に向けて詠んだ短歌)

登場する作品

脚注

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関連項目