九鬼守隆

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九鬼 守隆(くき もりたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名志摩鳥羽藩初代藩主。九鬼氏宗家初代。

生涯

天正元年(1573年)、九鬼嘉隆の次男として生まれる。

慶長2年(1597年)、父・嘉隆から家督を継ぐ。慶長5年(1600年)には徳川家康会津征伐に従軍し、石田三成の挙兵により関ヶ原の戦いが勃発すると急遽国許に戻った。ところが、父の嘉隆は鳥羽城にて西軍方に与しており、戦後、守隆は徳川家康に父の助命を嘆願し、認められると嘉隆に使者を派遣した。ところが、それより前に九鬼家の行く末を案じた豊田五郎右衛門が独断で嘉隆に切腹するよう促し、これを受けて嘉隆が自害。嘉隆の首級が家康の首実検のために伏見城に送られる途中の伊勢明星において、守隆の派遣した急使に確認される。これを知った守隆は激怒し、五郎右衛門を鋸挽きで斬首のうえ晒首にした。守隆は、父の帰依が深かった玉龍山大福寺を改築し[1]、入仏式に際して玉龍山大福寺を東照山常安寺に改めた[1][2]。また寺領100石と境内外の灯籠の油料20石を寺に寄進した[2]

鳥羽藩の初代藩主として5万6000石を領した。九鬼水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城時は木材や石材を海上輸送して江戸幕府に協力した[3]。その後、嫡男の良隆を廃嫡し、仏門に入っていた五男の久隆を還俗させて後継者にしようとするが、三男の隆季はこれに反対した。寛永9年(1632年)に守隆が死去すると、家督争いが起こり幕府の命令によって久隆が跡を継いだが、摂津に移封されることとなった。

脚注

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参考文献

  • 鳥羽市史編さん室 編『鳥羽市史 上巻』鳥羽市役所、1991年3月25日、1126pp.
  • 西垣晴次・松島博『三重県の歴史』(県史シリーズ24)山川出版社、1974年10月5日、254p.


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  1. 1.0 1.1 鳥羽市史編さん室(1991):332ページ
  2. 2.0 2.1 鳥羽市史編さん室(1991):333ページ
  3. 西垣・松島(1974):118 - 119ページ