九津見房子

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九津見房子(くつみ ふさこ、1890年10月18日 - 1980年7月15日)は、社会運動家・社会主義者。一生を社会主義思想と配偶者(夫)である三田村四郎に献身した。

生涯

幼少時にカトリックの影響を受ける。

日本最初の社会主義女性団体・赤瀾会の中心メンバーとして活躍。非合法の日本共産党大検挙(三・一五事件)で、女性初の治安維持法適用を受け、拷問の末、有罪判決札幌刑務所に服役。のちゾルゲ事件に連座、逮捕、投獄。未決勾留も含め獄中生活は通算して10年を超えるほどの苛酷な弾圧を受けた。

敗戦後、連合国最高司令官(SCAP)による思想犯釈放令で、餓死寸前に九死に一生を得て出獄。日本共産党からの復党の誘いを拒否。

そののち、かつての同志たちを弾圧する側に回った夫・三田村四郎(反共労働運動を指揮・推進)に献身した。夫の死(1964年)以降は静かな余生を送り、89歳でその生涯を終えた。敗戦後の行動についてはコメントを拒否し、一切黙して語らぬまま逝去したため、房子の真意は不明である。

評価

赤瀾会などのフェミニズム運動や、社会主義運動、共産主義運動に多大な貢献をなしたが、それら貢献は自分自身のためではなく、あくまでも他人に何の見返りを求めず、自己を犠牲にし、滅私奉公して献身する行為ばかりであったという点からみれば、いわゆるフェミニストとは対極の人生を歩んだ、と言うこともできる。江刺昭子が房子を「殉教者」と呼ぶ所以(ゆえん)である。

引用

「わたしの思想はキリスト教社会主義です。わたしの思想はこれを一歩も出ていないのです。厳密に言うとマルクス主義者ではありません」
牧瀬菊栄『九津見房子の暦』より
「母は自分というものがないんですよ」
房子の長女・一燈子が江刺昭子によるインタビューに答えて評したことば。江刺昭子著『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』より

年譜

  • 1890年10月18日 父・九津見又雄(養子、旧姓: 内藤)、母・九津見うた(岡山医学専門学校、産婆看護婦養成所卒)の長女として岡山市弓之町に生まれた。
  • 1893年(3歳) 父が追い出される形で、父母は離婚。祖母、母との3人の生活となり、母・うたは産婆を開業。産婆で職業婦人の母と、仏教徒で二刀流剣術や柔術など、武芸に長じた武士階級出身の祖母・九津見はる(備前勝山藩・三浦家の血筋につながる藩の家老の家柄)に育てられる
  • 189?年 カトリック教会の付属幼稚園に入るが、房子の洗礼問題をめぐり、仏教徒の祖母と教会との喧嘩で退園する。が、房子はその後もひそかに教会に出入りしてキリスト教に親しんだ
  • 1897年(7歳) 岡山師範学校付属小学校に入学
  • 1903年(13歳) 岡山師範学校付属小学校高等科2年を修了後、県立岡山高等女学校に入学。在学中、社会主義思想を知り、堺利彦の『百年後の社会』などを読む
  • 1906年(16歳)11月5日 いろは倶楽部(岡山の『平民新聞』読書会)主催による社会主義伝道隊の座間止水の講演を聞き、山川均を知る
    • 11月 不敬罪による3年半の服役を終え、岡山で薬屋を手伝っていた山川均にたびたび会いに行く
    • 12月 家出して上京。途中で山川均と会って、同じ岡山出身の福田英子の家に居候(いそうろう)し、『世界婦人』発行の原稿取りや校正、福田家の家事手伝いをしながら、堺利彦、幸徳秋水石川三四郎荒畑寒村管野スガら社会主義者の人柄に接する。郷里の女学校の教師が上京して帰郷を勧めたが、応じなかった
  • 1907年(17歳)3月 父・内藤又雄が逝去し、葬儀出席のため実家に戻る
  • 1908年(18歳)このころより社会主義者として要監視人物「特別甲号要視察人」として特高(特別高等警察、警視庁特別高等課)にマークされて常時尾行の対象となる
  • 1911年(21歳) 母・うたが逝去。親戚に預けられるが、親戚は尾行つきの房子を預かったため困惑のあげく、房子に米国在住の青年との縁談を持ちかける。この年の1月24日・25日に、幸徳事件大逆事件)で幸徳秋水、管野スガら12人が処刑される)
  • 1912年(22歳)縁談を嫌った房子は、大阪のキリスト者・高田集蔵のもとに出奔
  • 1913年(23歳)高田と結婚(内縁、入籍なし)
  • 1914年(24歳)長女・一燈子(ひとこ)を出産
  • 1916年(26歳)二女・慈雨子(じうこ)を出産
  • 1918年(28歳)布教で放浪するキリスト者の夫・高田集蔵が留守の間、生活のため家財を処分し、二人の子どもを連れて上京。子どもを託児所に預け、松屋呉服店勤務や、雑誌『今様』の編集などで暮しを立てる
  • 1920年(30歳)放浪から戻った夫に「女は夫を天として服従すべき」となじられたため、「少しは生活のことを手伝ってほしい」と返答すると、夫に「お前は本来、社会主義者なのだから、亭主に生活費を要求する前に雇い主に要求すべき」と言われ、この言葉で自分が社会主義者であることを自覚して内縁関係を破棄、離別、子ども二人を連れて家を出る。売文社の堺利彦に仕事を頼み、非合法・秘密出版の『共産党宣言』の筆耕(ガリ切り)に従事。社会主義の活動家となる。まもなく大杉栄の労働運動社に勤務。

関連文献

  • 江刺昭子「革命家から家庭人への数奇な一生を刻んだ殉教者の肖像 九津見房子」
    • 瀬戸内晴美責任編集『反逆の女のロマン』(『人物近代女性史 女の一生』6)、講談社、1981年2月所収
  • 江刺昭子著『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』、大月書店、1980年10月
    • (九津見房子に一章を割いている)
  • 大竹一燈子著『母と私 九津見房子との日々』、築地書館、1984年10月
  • 九津見房子「獄窓にて 三田村四郎はかく語る」
    • 雑誌『改造』、1933年9月号所収
  • 『現代史資料』1・2・3・16・19・24、みすず書房
  • 近藤真柄「回想の女友達・九津見房子」
    • 雑誌『婦人公論』1973年(昭和48年)4月号所収
  • 『第五十六回帝国議会衆議院委員会議録 予算委員第二分科(内務省及拓殖省所管)会議録』
  • 鈴木裕子編著『女性 反逆と革命と抵抗と』(『思想の海へ[解放と変革]』21)、社会評論社、1990年
  • 牧瀬菊栄著『九津見房子の暦 明治社会主義からゾルゲ事件へ』、思想の科学社、1975年
    • 九津見房子略年譜:p.229-239
  • 安田徳太郎著『思い出す人びと』、青土社、1976年6月
  • 山辺健太郎著『社会主義運動半生記』(『岩波新書』)、岩波書店、1976年

関連項目