九七式自動砲

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テンプレート:Infobox 九七式自動砲(きゅうななしきじどうほう)は、大日本帝国陸軍が制式化した唯一の対戦車ライフル

概要

1935年(昭和10年)から、歩兵中隊に随伴して対戦車戦闘を行う軽量な火器として、十三粍(13mm)手動銃(威力不足により後に開発中止)と共に二〇粍(20mm)自動砲の開発が開始された。1937年(昭和12年、皇紀2597年)7月21日付けの陸機密第九二号をもって研究方針が改正され、九七式自動砲として審査が開始された。同時期に研究のためにスイスゾロターン S-18/100を入手し、審査に用いていた[1][2]。九七式自動砲の開発は1938年(昭和13年)2月にほぼ完了し、同年10月に仮制式制定を上申したが、協議の結果、本砲の重量が歩兵中隊用としては過大であることから制式制定は当分の間見送り、とりあえず一部の歩兵大隊の機関銃中隊等に装備させることとして同年中に生産を開始した。本砲は単発だが弾薬の装填および排莢が自動で行なわれるため、「自動砲」なる新しい名称が与えられた。総生産数には約400門テンプレート:要出典と、約1200門[3]という説がある。

貫通能力に関しては諸説あるが、垂直に着弾した場合射程220mで30mm、420mで25mm、700mでも20mmの鋼板を貫通させることが出来たとされる[4]。命中精度そのものは高かったが、三脚架ではなく二脚架+後脚のため方向射界を与えるには肩で砲床を押し上げながらでなければ旋回できず、照準しながら目標を追尾することもできなかった。擲弾筒のような曲射兵器では攻撃しづらい目標(トーチカの銃眼など)を攻撃する役割も担っており、榴弾も用意されていた。

本砲は半自動式[5]で、基本的な機構は九八式高射機関砲と共通している。重量は約60kgで砲自体も巨大であり、効率的な運用のためには1門当たり兵10名前後(分隊)が必要だった。対戦車ライフルとしては高級な設計であり、本砲の価格は当時6,400三八式歩兵銃が77円であることと比較するといかに高価であったかがうかがえる。

実戦

生産数がそれほど多くないため、当初の配備先は満州所在の優良装備部隊が中心であった。太平洋戦争大東亜戦争)中にはこれらの部隊が南方方面へ転用されたため各地で使用された。なお、帝国陸軍の落下傘部隊(空挺部隊)である挺進連隊も本砲を装備しており、同部隊の訓練の模様を記録した1942年(昭和17年)公開の映画空の神兵』では、落下傘降下後の戦闘演習の際に登場している。

自動砲小隊歩兵大隊の大隊砲(九二式歩兵砲中隊内に設けられる。通常は4個小隊編制で、1個小隊は自動砲2門(2個分隊)を保有する。4個小隊であるのは歩兵1個大隊中に歩兵4個中隊があるためで、歩兵1個中隊につき自動砲1個小隊を配属することが可能である。大隊砲中隊内に置かれていることから、歩兵1個中隊に全自動砲小隊を集中配属することも可能である。

初期の実戦例として1939年(昭和14年)のノモンハン事件で少数が使用されある程度の威力を発揮した。特に装甲車には絶対的な攻撃力を示した。ソ連軍側の資料には、日本軍の20mm機銃と記述されているが、ノモンハンで日本軍が20mm機銃装備の部隊を配備した記録はなく、構造上類似しているこの九七式自動砲によるものだと考えられる。なおノモンハンでは停戦後の9月19日時点で1門の鹵獲が確認されている[6]

第二次世界大戦後期に入り連合軍戦車の装甲が強化され、対戦車ライフルというカテゴリそのものが陳腐化していくことになり、貫通力が高いとは言えない九七式自動砲も例外ではなく威力不足が目立つことになった。ただし前線の貴重な火力として、軽装甲の装甲兵員輸送車や敵陣地・トーチカといった軟目標を相手にするには依然有効だった。また対装甲威力の向上を狙って外装式の地雷擲弾(ジテ弾)も開発された[7]

一部には現地で全自動式に改造されたものが高射機関砲の代わりとして使用された事もある。陸軍でも現地部隊が針金等を用いて製作する九七式自動砲用の高射用具の図面を作成していた[8]。なお、高射姿勢時には尾筒の復座不足に起因する不発が発生することがあり、注意が必要であった[9]

大口径の対戦車ライフルを対空火器に転用した例は他にも存在する。前述のように九八式高射機関砲は九七式自動砲同様にオチキス系のガス圧作動式機関砲で、転用ではないが構造的に類似したものである。外国でも同様に、前述のゾロターン S-18/1100対戦車銃をもとに高射機関砲化したドイツFlak 30があり、フィンランドではラハティ L-39対戦車銃専用の連装高射銃架「Ilmatorjuntakivääri L-39/44(対航空機関銃 L-39/44)」が開発され、Il-2等の襲撃機対策として積極的に運用された。

使用弾薬

  • 九七式曳光徹甲弾
被装甲目標射撃用の曳光徹甲弾であり、弾底部に曳光剤室を有する。全備弾薬量332g。
  • 九七式曳光徹甲弾代用弾
演習用の弾薬であり、九七式曳光徹甲弾と同様の弾道性能を有する。
  • 九八式曳光榴弾
軟目標射撃用の曳光榴弾であり、弾頭内部に炸薬室、弾底部に曳光剤室を有する。九三式小瞬発雷管を使用。全備弾薬量306g。
九八式高射機関砲用の弾薬としても制式化されたが、のちに使用禁止になっている(九七式自動砲用の弾薬としては引き続き使用)。[10]
  • 空砲
後にジテ弾の発射用にも使用された。

以上は「九七式自動砲取扱法の件」の「第五章 弾薬」41,42頁を参照した。なお、曳光榴弾を除き九八式高射機関砲とは使用弾薬に互換性がある。

生産と配備

1938年(昭和13年)10月、陸軍技術本部は本砲を九七式自動砲として制定上申したが、陸軍省陸軍参謀本部と協議の結果、当初の予定重量40kgを20kg弱上回ったため通常の歩兵中隊の編成に含めることは問題であると判断し、一部歩兵大隊の機関銃中隊に装備させることとして、同年から小倉陸軍造兵廠で生産を開始した。昭和13年度50門、同14年度250門、同15年度450門を生産したが、1941年(昭和16年)度は12月までに300門を生産した後、貫徹能力の不足が指摘されて生産を停止した。その後1943年(昭和18年)1月から8月まで日本特殊鋼株式会社で約100門を追加生産した。総生産量は約1200門である。[11]

派生型

本砲をベースに旋回式の航空機関砲としたもの。
本砲をベースに固定式の航空機関砲としたもの。

注記

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参考資料

  • 小橋良夫 『日本の秘密兵器 陸軍篇』、学習研究社、2002年、ISBN 9784059011422
  • マクシム・コロミーエツ『独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦  ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い』小松徳仁(訳)、鈴木邦宏(監)、大日本絵画、2005年、ISBN 4499228883
  • 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」 光人社文庫 2011年、ISBN 978-4-7698-2697-2

関連項目

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テンプレート:Asboxテンプレート:大日本帝国陸軍の小火器

テンプレート:大日本帝国陸軍の火砲
  1. 兵器局銃砲課「兵器調弁の件」アジア歴史資料センター、Ref.C01006768200、防衛省防衛研究所所蔵。
  2. 陸軍技術本部長久村種樹「ゾロターン社製20粍自動砲下付の件」アジア歴史資料センター、Ref.C01006866000、防衛省防衛研究所所蔵。
  3. 佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」127頁。
  4. 陸軍技術本部長久村種樹「九七式自動砲弾薬仮制式制定の件」アジア歴史資料センター、Ref.C01001742600、防衛省防衛研究所所蔵。
  5. 全自動射撃専用とした文献資料も数多く見られテンプレート:要出典、一部では今なお議論の対象となっている。
    なお、「九七式自動砲取扱法の件」の「総説」第三項では「引鐵ヲ引ク毎ニ次弾ノ實包ヲ装填及発射シ自動的ニ之ヲ復行セシメ得ルモノトス」とあり、半自動式と説明されている。</br>
  6. ロシア国立軍事文書館(RGVA) フォンドNo.32113(ハルハ河戦闘活動資料集)管理簿No.1 ファイルNo.6 リスト5~10。(コロミーエツ、136頁)
  7. 小橋、161頁
  8. 第一陸軍技術研究所「九七式自動砲高射用具応急案説明書」アジア歴史資料センター、Ref.A03032122000、国立公文書館所蔵
  9. 上資料、「第三篇 取扱上ノ注意」11,12頁、「八、高射ノ際ハ往ク尾筒復座不足ヲ生起スルコトアルヲ以テ・・・」「九、高射時ハ尾筒後座止ノ異常ノ有無ヲ点検スヘシ」
  10. 銃砲課「九八式高射機関砲弾薬九八式曳光榴弾使用禁止の件」アジア歴史資料センター、Ref.C01006014400、防衛省防衛研究所所蔵。
  11. 以上、本項は佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」127頁による。