中山みき

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テンプレート:Infobox religious biography 中山 美伎(なかやま みき、寛政10年4月18日1798年6月2日) - 明治20年(1887年2月18日)は、日本宗教家天理教教祖。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている。

生涯

寛政10年4月18日朝に、津藩領の大和国山辺郡三昧田村(現在の奈良県天理市三昧田町)の前川半七の家に生まれる。前川家は浄土宗檀家であったので、その感化を幼時より受けて浄土宗の熱心な信者となった。浄土宗の僧侶になることを希望し、19歳の時に五重相伝を受ける。

文化7年9月15日1810年10月13日)に中山善兵衛に嫁ぐ(この中山家を、天理教では「元のやしき」と呼ぶ)。

天保9年(1838年)10月23日、長男の秀司が足痛で苦しんだときに修験者の市兵衛を招いて祈祷を行い、みき自ら加持代となる。この時、「元(もと)の神、実(じつ)の神」と自ら名乗る、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに憑依天啓を受けたとされている。その神は、みきを「神のやしろ」として貰い受けたいと申し出て、その申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすと言ったという。10月26日になって、夫の善兵衛がみきを「神のやしろ」となることを承諾すると、みきの苦痛がおさまったとされる(天理教では、この日を「立教の元一日」としている)。

みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の貧民に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかった。これにより、中山家は没落し貧乏暮らしをすることになったが、みきはそのことを気にすることはなく、むしろその生活を受け入れた。

布教活動

次第にみきの教えに従う人の数も増え、元治元年(1864年)、専用に「つとめ場所」を建築。この頃より各地に出向き布教を行いはじめるが、次第に迫害も増え、時には陣屋に呼び出され、神を祀るのを禁止されることもあった。

慶応3年(1867年)1月、『みかぐらうた』の製作に従事、かぐらのてぶりや鳴り物の稽古をはじめた。同年、京都神祇管領吉田家に願い出て、布教認可を得て公認となり迫害は収まった。その間にみきは、神命に従い、明治元年(1864年)には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年(1869年)正月から『おふでさき』書始め、かんろだいの雛形製作、ぢばさだめ(明治8年6月29日)など、天理教の基を築いた。『みかぐらうた』・『おふでさき』・『泥海古記』・『おさしづ』は、天理教の根本の教義・教典となり、没後も本席飯降伊蔵の下、天理教として布教が行われた(『おさしづ』のほとんどは、飯降伊蔵の口を通してのもの)。

しかし、明治維新後、吉田家の公認は無効となり、明治政府の弾圧が続く中、明治20年2月18日に没した。みきが逝去したと言われる午後2時には、作業の手を止めて教祖殿に向かって1分間ほど礼(黙祷)をする慣習がある。

死後

ファイル:Oyasama's Residence.jpg
教祖殿(きょうそでん)。天理教では、現在もここで生活しているとされる。

なお、天理教では人が没することについて、「古い着物を新しい物と着替えるような物」として、体は神に返し魂は天地に抱かれているとし、また新しい体を借りて縁ある所に生まれてくるという事で、「亡くなった」「死去した」とはせずに、「出直し」と表現するが、教祖の中山みきだけは「現身(うつしみ)を隠される」と表現している。これは、「魂は永久に元の屋敷に留まり、存命のまま一れつ人間の成人を見守り、ご守護してくださっている」(天理教道友社「ようこそおかえり」 1985年刊より)という考えによるものである。天理教本部では、中山みきは教祖殿で生活しているとされ、生前と同じように食事が運ばれるなど、いろいろなお世話がなされている。

家族

  • 夫善兵衛との間に、一男五女(秀司、おまさ、おやす、おはる、おつね、こかん)を授かる(初代真柱の中山眞之亮はおはるの三男である)。
  • 中山正善(2代真柱)

系譜

播州のおやさまと尊称された。

「~てるあき」と読む。

参考文献

  • 『稿本天理教教祖伝』 - 伝記資料
  • 芹沢光治郎『教祖様』(新潮社刊)

外部リンク

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