中国法制史

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中国法制史(ちゅうごくほうせいし)は、過去の史料等をとおして中国の過去の制度や法現象等を研究する学問のことをいう。

日本の律令制度が中国のの律令を模範として成立してきたことなどから、日本では近代以前から中国法制への関心が高かった(伊藤東涯の『制度通』など)。

古代

周以前

中国最初の法律を作ったのは、であるとも、が定めた『禹刑』であるとも言われているが、いずれも伝説の範疇である。だが、伝説とされる帝王達が悪姦を倒すために軍を動員して戦いに臨むなど、その初期においては法と刑罰と軍事が極めて近い関係であったことを示す記録が残されている。


周(西周~春秋戦国時代)

西周時代には宗族制度を重視して「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」と言われて(『礼記』)刑罰は庶民を対象とするのが原則であったが、実際にはその限りではなかった。
西周中期に王権が揺らぎ始めると穆王が『呂刑』を定めたものの、三千条にも及び却って諸侯や民心が離れたと言われている。
実質上国内が諸侯によって分割された春秋時代に入ると宗族制度が崩壊して、社会矛盾が激しくなる中での宰相であった子産が『参辟』と呼ばれる史上初の本格的な成文法を定めて、青銅器にその文面を鋳込んで官民ともに適用される事を告知したのである。当時最も優れた政治家と認められていた子産が率先して周王朝の国家理念ともいえる宗族の伝統を無視する法制を定めた事で叔向孔丘と言った優れた人々が彼に対して批判を寄せたがこの流れは各国に広がった。
戦国時代になって登場した法家は法律による統制を重視する思想集団であり、その祖はに仕えた李克である。李克は諸国の法を纏めた『法経』を編纂し、これを持って魏を強国としたと伝えられる。しかし『法経』の存在には疑問が多い。ただ李克が法を持って国政改革の柱としたことは事実のようである。

その後を受けたのが商鞅である。商鞅は変法と呼ばれる国政改革を断行し、野蛮とみなされていたを一躍強国に生まれ変わらせた。この商鞅の法が受け継がれて後の秦帝国の法の基本となっていると考えられる。

秦漢統一帝国

初めて中国を統一した始皇帝の治世は「苛烈な法家政策」と評されるが、その実際の内容についてはこれまでは史料が乏しく、実態についてはほとんどわからないままであった。

しかし1975年の『睡虎地秦簡』・2002年の『里耶秦簡』の発見によりその状況が一変した。『睡虎地秦簡』・『里耶秦簡』のどちらも(『里耶秦簡』は特に)研究途上であり、まだ秦律の全容解明には及んでいない。

秦を滅ぼした前漢に於いては始めは劉邦が「人を殺した者は死刑、盗んだ者と人を傷つけた者はそれに応じた刑を課す」とする『法三章』を掲げて秦の圧制に苦しむ民衆の心を掴んだ。天下の平定後に蕭何が秦律を参考にして「律九章(九章律)」と呼ばれる法を作ったと言う。『晋書』によれば盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと言う。しかしその具体的内容については秦と同じく史料に乏しくよく判らない。また、「律九章」の作者が蕭何なのか疑問も持たれている(ただし、この疑問は後漢王充が『論衡』謝短編において既に表明している)[1]

文帝の時代、名医倉公太倉公)として知られた淳于意が罪に問われた際に娘の訴えによって、手足の切断など身体を永久に傷つけるような肉刑(但し宮刑は除く)は原則的に禁止された。だが、その分の鞭打ちの回数が増大されたり、死刑に該当する刑罰が増加したりして却って罪人への扱いが厳しくなったとの批判もされた。

1983年湖北省荊州市の郊外にある墳墓から『二年律令』と呼ばれる竹簡群が出土した(律令とは言っても後世の律令とは異なる)。これに記載されている律には賊・盜・具・告など二十八律があった。しかしこれも『雲夢秦簡』と同じく漢律の一部であって全てではないと考えられる。

秦漢時代には秦律・漢律と呼ばれ、律は後世では刑法のことを指すが、この時代には法全体のことをさす。

中世

三国~南北朝時代

三国時代に入って最初に本格的な法律を制定したのは、諸葛亮である。彼は法正らとともに「蜀科」という法律を制定した。その内容は今日では不明であるが、厳格であった一方で公正に定められていたために、罪人達もこれを恨む事がなかったと言われている。遅れてでも法律編纂が図られたが、その際に肉刑復活を主張する陳羣と反対する王朗が激しい論争を行った。

史上初めて制定された律令は、西晋泰始4年(268年)に賈充らによって作られた『泰始律令』である。それまでは律と令がはっきりとは区別されていなかった。この『泰始律令』は魏晋南北朝時代を通じて基本的に受け継がれていった。同じ頃劉頌が、刑罰はあくまで法の規定の範疇で行うべきもので他の違法行為に牽強附会して処罰するべきではないという進歩的な主張を行ったが、法をあくまでも支配階層の統治手段と考える当時の朝廷では受け入れられなかった。

南北朝時代南朝では肉刑が復活された(『宋書』明帝本紀泰始4年9月条/『南史』宋本紀下同年条)が、当時は北朝との緊張関係が高かった時期であったことや、本来死刑と規定された罪に対する恩赦時の減刑の手段として行われたことから反対する議論はほとんど生じなかった。それでも、『南史』の同条には明帝崩御後には再び肉刑が停止されたことも記されている。また、2代後の王朝であるが建国時に定めた律令においても死刑の減刑として肉刑の規定が導入(『隋書』刑法志)され、13年後にこの規定を停止したこと(『梁書』天監14年正月条)ことが知られている。[2]

隋・唐時代

その後の文帝の時に改正が加えられ、『開皇律令』と呼ばれる新しい律令が出来た。2代煬帝は更に改正して『大業律令』を作るが、これは『開皇律令』とあまり変わりはない。隋を倒した高祖李淵は『開皇律令』を基にして『武徳律令』を作った。その後も何度か改変が重ねられ、玄宗開元25年(737年)に作られた『開元二十五年律令』は律令の完成形とも呼ばれ、その後の中国のみならず日本朝鮮などでもお手本として扱われた。

しかしその当時で既に律令が現実と乖離し始めており、それに代わって重要性を増してきたのが律令を補足する格式である。この法と現実との乖離は唐代では律令を形骸化して、その間を格式で埋めることで補われ、結局形骸化した律令は捨て去られることは無かった。

なお、律令本文は早くに散逸したが、律については李林甫らによる注釈書『唐律疏義』が残り、令については、1933年、日本の法制史家である仁井田陞が、和漢の典籍より逸文を拾遺し、『唐令拾遺』を著している。

近世

五代・宋代

五代の諸王朝では後漢以外の王朝がいずれも法典を作成した。その中でも、後周の『大周刑統』がよく知られている。全体的に乱世を反映して厳格かつ残虐な法令が定められた。

  • 後梁-『大梁新定格式律令』
  • 後唐-『新集同光刑律統類』
  • 後晋-『天福雑勅』
  • 後周-『大周編続勅』・『大周刑統』

元代

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明代

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清代(阿片戦争以前)

皮肉にも清の行政法体系を知る上で最も重要な本を刊行したのは清から台湾の割譲を受けて植民地化した日本台湾総督府であった。植民地統治の必要上現地の旧法規を知る必要性に迫られた後藤新平の命を受けて織田萬狩野直喜らが1905年から10年間かけて執筆した『清国行政法』と『台湾私法』がそれである。前者は「嘉慶大清会典」と「嘉慶会典事例」を元に清の行政法規を近代法学の立場から分析した書物である。

近・現代

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脚注

  1. 廣瀬薫雄『秦漢律令研究』汲古書院、2010年、P54-56。なお、廣瀬は同書にて「詔=令」で、律は令の文中の模範的規範のみを指し、「律九章」は漢の官吏が公務の必要から律を集成・整理したものが広まったもので、公式な法令集・法典ではなかったとする見解に立っている。
  2. 石岡浩「両晋・南朝の却罪にみる肉刑と冶士」(所収:池田温 編『日中律令制の諸相』(東方書店、2002年) ISBN 978-4-497-20205-5)

関連項目

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