醍醐寺
テンプレート:日本の寺院 醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある、真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。
目次
歴史
醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。
その後、応仁の乱など戦乱で下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残された。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに、紀州などから寺院建築が移築されたり三宝院が建設されたりなどし、今日の姿となった。
年表
- 874年 - 聖宝により創建。
- 1598年 - 豊臣秀吉により醍醐の花見が行われる。
- 1939年夏 - 上醍醐を襲った山火事で短時間の間に、経蔵、清滝宮本殿、西国三十三所第11番札所の准胝堂(じゅんていどう)が焼失した。
- 1995年1月17日 - 発生した兵庫県南部地震の影響で、五重塔、金堂などの漆喰がはがれた。
- 2008年8月24日 - 落雷による火災で、上醍醐の准胝堂(1968年再建)がほぼ全焼した。
伽藍
上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で1時間は要する。
下醍醐
本尊薬師如来を安置する「金堂」「三宝院」などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱でほぼ全焼し、その後も焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部の壁画も国宝に指定されており、壁画中の空海像は同人の肖像として現存最古のものである。
- 金堂(国宝)
- 入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶している。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)本堂であったという。部材には平安時代のものが残るが、堂が湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在する。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修である。内部には本尊薬師三尊像(重要文化財)を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。
- 五重塔(国宝)
- 天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、代明親王の死去(937年)などの影響で工事は停滞し、発願の20年後に完成した。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める。屋根の逓減率が大きく[1]、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションにはならない。創建以来修理を重ねたが、特に天正13年(1585年)の地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受けたため、豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597年)に修理が完成している。昭和25年(1950年)の台風でも被害を受け、同35年(1960年)に修理が完成した。京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」として国宝に指定されている。
- 西大門
- 清瀧宮本殿(重要文化財) - 慶長4年(1599年)建立。
- 観音堂(旧・大講堂) - 昭和5年(1930年)建立。現在は消失した上醍醐の准胝堂の西国札所が仮に移されており、「観音堂」と改称されている。
- 弁天堂 - 昭和5年(1930年)に林泉の北東岸に建立された建物。
- 女人堂
- 三宝院については三宝院の項目を参照されたい。
上醍醐
西国三十三所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現拝殿(国宝)、准胝堂(現存せず)、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂(重文)と開山堂(重文)と白山大権現が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。
- 薬師堂(国宝)
- 醍醐天皇の勅願により延喜7年(907年)頃に聖宝(理源大師)により創建。現存の堂は保安2年(1121年)の建立。入母屋造、檜皮葺き。正面5間、側面4間。側面の柱間4間のうち、中央の2間が狭く、前寄りと後寄りの各1間が広いのは珍しい。内部には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上重要文化財)などを安置していたが、現在はすべて下醍醐の霊宝館に移されている。
- 清滝宮拝殿(国宝) - 永享6年(1434年)に再建、清滝宮は弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。
- 醍醐水 - 聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれる霊泉。
- 准胝堂 - 聖宝が如意輪堂とともに建立、西国三十三所観音霊場第十一番札所。1968年に再建された堂は2008年8月24日焼失。再建までの間は西国札所は下醍醐の観音堂(大講堂)に仮に移されている。
- 五大堂 - 聖宝が開いた国家鎮護の祈願道場。
- 如意輪堂(上醍醐) - 慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建、理源大師(聖宝)により准胝堂とともに建立されたと伝わる
- 開山堂(上醍醐) - 如意輪堂ともに慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建、内陣の厨子には理源大師(聖宝)坐像など安置
年中行事
醍醐寺の主な行事としては、醍醐派が本家である壮大な屋外大護摩柴燈護摩(さいとうごま)を中心とした施餓鬼法要が8月に厳修されるほか、2月には同様に柴燈護摩を炊き上げて五大明王の功徳を讚える「五大力尊仁王会」(ごだいりきそんにんのうえ)が厳修され併せて150キロ近い巨大な鏡餅を持ち上げる力比べが行われることで有名。また豊臣秀吉の「醍醐の花見」にちなんで現在も4月に全山を揚げての花見会が開催される。
文化財
国宝
- 建造物
- 金堂
- 五重塔
- 清滝宮拝殿(上醍醐)
- 薬師堂(上醍醐)
- 三宝院唐門 - 1599年建立
- 三宝院表書院
- 絵画
- 絹本著色五大尊像
- 絹本著色文殊渡海図
- 絹本著色訶梨帝母像
- 絹本著色閻魔天像
- 五重塔初重壁画(板絵著色)18面
- 両界曼荼羅図 心柱覆板絵4、羽目板絵7
- 真言八祖像(善無畏を欠く)羽目板絵7
- 附 両界曼荼羅図(旧四天柱絵2本、羽目板絵断片4面)
- 紙本著色絵因果経
- 彫刻
- 木造薬師如来及両脇侍像(旧上醍醐薬師堂安置)
- 書跡・典籍、古文書
- 大日経開題 弘法大師筆
- 後宇多天皇宸翰当流紹隆教誡(三通)
- 後醍醐天皇宸翰天長印信(蝋牋)
- 狸毛筆奉献表 伝弘法大師筆
- 理源大師筆処分状
- 醍醐寺文書聖教(もんじょしょうぎょう) 69,378点
重要文化財
- 建造物
- 清滝宮本殿
- 如意輪堂(上醍醐)
- 開山堂(上醍醐)
- 三宝院殿堂(玄関、勅使の間・秋草の間・葵の間、庫裏、宸殿、純浄観、護摩堂)
- 三宝院宝篋印塔
- 絵画
- 絹本著色阿弥陀三尊像
- 絹本著色大日金輪像(1902年重文指定、98.2×60.9 cm)
- 絹本著色大日金輪像(1941年重文指定、96.4×83.3 cm)
- 絹本著色虚空蔵菩薩像
- 絹本著色地蔵菩薩像
- 絹本著色普賢延命像
- 絹本著色弥勒菩薩像
- 絹本著色大元帥明王像(卅六臂、八臂、四臂)3幅・毘沙門天像・伝釈迦曼荼羅図・虚空蔵曼荼羅図(大元帥法本尊像)
- 絹本著色愛染明王像
- 絹本著色金剛夜叉明王像
- 絹本著色大威徳明王像
- 絹本著色五秘密像
- 紙本墨画不動明王像 5幅
- 紙本墨画密教図像 39点(明細は後出)
- 絹本著色山水屏風 六曲屏風
- 絹本著色仁王経曼荼羅図
- 絹本著色般若菩薩曼荼羅図
- 絹本著色弥勒曼荼羅図
- 絹本著色両界曼荼羅図
- 絹本著色六字経曼荼羅図
- 紺絹金泥六字経曼荼羅図
- 紙本著色十巻抄(第十巻補写)
- 金地著色扇面散図 伝俵屋宗達筆 二曲屏
- 金地著色舞楽図 俵屋宗達筆 二曲屏
- 紙本著色調馬図 六曲屏
- 紙本墨画芦鴨図 俵屋宗達筆(二面衝立)
- 三宝院障壁画 72面(明細は三宝院の項を参照)
- 彫刻
- 木造薬師如来及両脇侍像(金堂安置)
- 銅造阿弥陀如来坐像
- 木造阿弥陀如来坐像
- 木造聖観音立像
- 木造千手観音立像
- 木造如意輪観音坐像
- 木造地蔵菩薩立像
- 木造弥勒菩薩坐像 快慶作(三宝院本堂安置)
- 木造閻魔天像
- 木造吉祥天立像
- 木造金剛力士立像(所在西大門) - 1134年造立
- 木造帝釈天騎象像
- 木造五大明王像(旧三宝院護摩堂安置)
- 木造不動明王坐像 快慶作
- 木造不動明王坐像
- 木造五大明王像(上醍醐五大堂安置)[2]
- 木造理源大師坐像(開山堂安置)
- 工芸品
- 金銅仏具(如意、九鈷杵、五鈷鈴、金剛盤)
- 金銅両界曼荼羅
- 石燈籠
- 線刻阿弥陀五仏鏡像
- 線刻如意輪観音等鏡像
- 鍍金輪宝羯磨紋戒体筥
- 沃懸地螺鈿説相箱(いかけじらでんせっそうばこ) 一双
- 螺鈿如意
- 書跡・典籍、古文書
※三宝院唐門、三宝院表書院、三宝院殿堂、三宝院宝篋印塔、三宝院障壁画の国宝2件、重要文化財3件は宗教法人三宝院の所有であり、宗教法人醍醐寺が文化財保護法に基づく管理団体に指定されている。[3]
- 密教図像 39点
- 不動明王像 3幅
- 金翅鳥及大輪明王像 1幅
- 大日金輪像 1幅
- 毘沙門天像 1幅
- 善女竜王像 2幅
- 普賢延命像 1幅
- 求聞持法根本尊 1幅
- 訶梨帝母像 2幅
- 毘楼勒叉天像 1幅
- 五大尊像 1幅
- 孔雀明王像 1幅
- 金剛童子像 1幅
- 仁王経法本尊像 5幅
- 諸菩薩像 8幅
- 五大尊図像 2巻
- 八大明王像 1巻
- 大元帥明王像 1巻
- 九曜星図像 1巻
- 諸尊図像 1巻
- 五大虚空蔵坐居諸図像 1巻
- 三十七尊羯磨形 1巻
- 馬頭、大勝金剛、馬鳴曼荼羅六字図像 1巻
- 祈雨法、深沙大将等諸像 1巻
- 火天部尊像 1巻
- 十八会曼荼羅図像 1巻
- 八大明王図像 1巻
- 妙見菩薩図像 2巻
- 仏眼、金輪、仏頂熾盛光、五秘密、宝楼閣図像 1巻
- 不動明王図像 1巻
- 四種護摩本尊及眷属図像 1巻
- 明王部図像 1巻
- 三摩耶形 3巻
- 諸文殊図像 1巻
- 十二天形像 1巻
- 御筆四種護摩壇三十七尊賢劫三摩耶形 1巻
- 三十七尊賢劫十六尊外金剛部二十天三形 1巻
- 天部図像 1巻
- 四家鈔図像 3巻
- 十二神将図像 2巻
特別名勝・特別史跡
- 醍醐寺三宝院庭園
史跡(国指定)
- 醍醐寺境内 - 指定区域には栢杜遺跡(伏見区醍醐柏森町)を含む[4]
近代以降に焼失した文化財
- (旧)五大堂(上醍醐) - 旧国宝建造物。昭和7年(1932年)4月3日、護摩の火が屋根に燃え移り焼失、昭和15年(1940年)再建。
- 経蔵(上醍醐) - 旧国宝建造物。昭和14年(1939年)8月29日、山火事が飛び火して焼失。
- 指定文化財ではないが、上醍醐の准胝堂(1968年再建)は、平成20年(2008年)8月24日、落雷による火災で焼失している。
その他指定・選定
- 境内は日本さくら名所100選選定
教育機関
- 醍醐山伝法学院
- 種智院大学(協同経営)
- 洛南高等学校・附属中学校(協同経営)
施設
- 醍醐寺文化財研究所
- 霊宝館
周辺
アクセス
- 山科駅(JR・京阪・地下鉄)より、京阪バス29A号経路「醍醐寺」下車すぐ。または、京阪バス22・22A・24・24A号経路「醍醐三宝院」下車すぐ。
- 地下鉄醍醐駅より、徒歩10分(パセオ・ダイゴロー東館2階から続く「緑道」を使う)。または醍醐コミュニティバス4号路線「醍醐寺前」下車すぐ。
- 六地蔵駅(京阪・JR・地下鉄)より、京阪バス22・22A号経路「醍醐三宝院」下車すぐ。
- 京都駅八条口より、京阪バス山科急行線「醍醐寺」下車すぐ。
- 三条京阪・四条河原町・五条京阪より、京阪バス醍醐快速「醍醐寺」下車すぐ。または京阪バス86号・86B経路「醍醐寺前」下車すぐ。
- 上醍醐寺へは下醍醐寺の女人堂から山道を約1時間。
- かつては横嶺峠の駐車場からの比較的楽なルートもあったが、現在は通行不可になっている。
御詠歌
- 逆縁も
- もらさで救う
- 願なれば
- 准胝堂は
- たのもしきかな
前後の札所
脚注
参考文献
- 井上靖、岡田宥秀『古寺巡礼 京都3 醍醐寺』、淡交社、1976
- 『週刊朝日百科』「日本の国宝 72 醍醐寺」、朝日新聞社、1998