三経義疏

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三経義疏』(さんぎょうぎしょ)とは、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称である。それぞれ『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三経の注釈書(義疏・注疏)である。

日本書紀に推古天皇14年(606年)聖徳太子が勝鬘経・法華経を講じたという記事があることもあり[1]、いずれも聖徳太子の著したものと信じられてきた。『法華義疏』のみ聖徳太子真筆の草稿とされるものが残存しているが、『勝鬘経義疏』・『維摩経義疏』に関しては後の時代の写本のみ伝えられている。

法華義疏

『法華義疏』は伝承によれば推古天皇23年(615年)に作られた日本最古の書物となる。

一般に聖徳太子自筆とされている『法華義疏』の写本(紙本墨書、4巻)は、記録によれば天平勝宝4年(753年)までに行信が発見して法隆寺にもたらしたもので、長らく同寺に伝来したが、明治11年(1878年)、皇室に献上され御物となっている。

この写本は冒頭の表題と撰号(著者署名)を欠いており、第一巻の巻頭には別紙を継いで、ここに「法華義疏第一」の内題があり、その下に本文とは別筆で「これは大委国の上宮王による私集で、海外から渡来したものではない」(意訳)と書かれている。料紙については、本文は中国製の紙を使用し、貼紙は日本製の紙であるとの見方もある。本文の行間には書込み、訂正などが見られ、草稿本であることが明らかである。書風は六朝風であるといわれ、聖徳太子自筆の草稿本と考えられているが、異説もある。

成立

この種の注釈書は当時の中国に多く見られる。

  • 『法華義疏』は法雲476年 - 529年)による注釈書『法華義記』と7割同文で、これをもとにしたものであることが分かる。
  • 『勝鬘経義疏』は敦煌出土の『勝鬘経義疏本義』と7割同文。未発見の6世紀前半と推定される注釈書をもとにしたものと思われる。
  • 『維摩経義疏』もやはり梁の吉蔵549年 - 623年)の『維摩経義疏』や敦煌出土の『維摩経義記』と類似しており、僧肇384年 - 414年?)の『註維摩詰経』や智蔵458年 - 522年)の説を論じている。

『三経義疏』はいずれもこれら6世紀前半ごろの中国の書物と相並ぶものとなる。先行するものはそれまで日本にはなく、この後にこの種の書が日本で著されるまでに長い空白があるのは不自然であるという指摘は、古くからあった。

これについて、以下のように諸説はあるが決着を見ていない。

  1. 中国の書が600年ないし607年隋との交流から日本にもたらされ、これらを参考に聖徳太子が著作した。
  2. そのころ朝鮮半島から来日した僧が聖徳太子の下で著作した。
  3. そのころ中国から入手した書の中から聖徳太子が選び出した。
  4. 撰者不明のまま伝えられてきたものを、天平十九年(797)、寺の資財帳提出の際に上宮王撰という撰号を付した。[2]
  5. 天平勝宝4年(753年)までのいずれの時代かに中国から渡来した輸入品である。


刊行書籍

「勝鬘経義疏」、早島鏡正・築島裕校注-他は「憲法十七条」、「上宮聖徳法王帝説」。
  • 『大乗仏典 中国・日本篇16 聖徳太子・鑑真』、中央公論社。 
「勝鬘経義疏」、藤井教公訳/高崎直道解説。現代語訳のみ

脚注

  1. 日本書紀 巻第二十二「秋七月、天皇請皇太子、令講勝鬘經。(中略)是歳、皇太子亦講法華經於岡本宮」。現代語訳: 秋七月、天皇は皇太子に請い、勝鬘經を講じるよう仰せになった。その年、皇太子はまた、法華經をも岡本宮で講じられた)
  2. 吉川弘文館『国史大辞典』より「三経義疏」の項。

関連項目

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