ラーマ1世

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テンプレート:Infobox ラーマ1世テンプレート:Lang-th)はチャクリー王朝の初代のシャム国王プッタヨートファーチュラーロークテンプレート:翻字併記)とも呼ばれる。

名称

ラーマ1世の名称や呼称としては、トーン・ドゥワン(ทองด้วน)、ルワン・ヨッククラバット(หลวงยก กระบัตร)、プラ・ラーチャワリン(พระราชวรินทร์)、プラヤー・ヨマラート(พระยายมราช)、チャオプラヤー・チャックリー(เจ้าพระยาจักรี)、ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック(สมเด็จเจ้าพระยามหากษัริย์ศึก)、チュラーローク将軍、チャックリー将軍などがある。

生涯

幼名はトーン・ドゥワンアユタヤ王家の血を引いており、アユタヤ時代の士官、チャオプラヤー・コーサーパーンの子孫と言われる。母親は中国人である。アユタヤ王朝末期にすでに官吏として仕官しておりルワンヨック・クラバットの爵位も持っていた。ラーマ1世の称号ラーマ6世によって制定されたものである。

彼の仕えたアユタヤー王朝がのちに、1767年(タイ仏歴2310年)にビルマ現ミャンマーに占領されると、翌年に華人勢力のタークシンがビルマ兵を駆逐し、トンブリー王朝を起こして王位に就くが、このときルワンヨック・クラバットことラーマ1世はタークシン国王に仕えた。ルワン・ヨッククラバットは、タークシンがラヨーンで挙兵したときにタークシンの母を保護のためラヨーンに送り届けた手柄でプラ・ラーチャワリンに昇進したのをはじめ、多くの戦果を上げプラヤー・アパイロンリット、プラヤー・ヨマラート、チャオプラヤー・チャックリー、ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック、へと次々に昇進していったため、猛将としても知られている。

トンブリー王朝のタークシン国王が晩年に精神錯乱状態をきたした時、チャオプラヤーことラーマ1世は国内の混乱をおそれて、カンボジア遠征を中断し、トンブリーに戻り、タークシン国王を処刑した。この後、チャオプラヤーは王位に就くが、タイの正史ではチャオプラヤーは民衆に推挙され国王になったとされる。国王になったため名前をプラバートソムデットプラ・プッタヨートファーチュラーローク(世界最上の天上の御仏の意)とし、トンブリーからチャオプラヤー川を挟んで対岸である東岸にバンコク(正しくはクルンテープ)を建設し遷都した後、チャクリー王朝を興した。アユタヤ王朝の神権政治を継承した。

チュラーロークことラーマ1世は、即位後も猛将ぶりを発揮し、数回に及び進軍してきたビルマを駆逐し、国内を安定させた。国内が安定してくると、『三印法』を整備し官制度を整備した。またアユタヤ王朝の末裔であることを見せるため、多数の学者を導入してビルマ占領時代に散逸した文学ラーマキエンイナオを再編集した。今でもラーマ1世版のラーマキエンは数あるラーマキエンの中でも秀逸な作品として知られる。観光地と知られるワット・プラケーオ(エメラルド仏寺院)も彼の建設によるものである。ここにチュラーロークはヴィエンチャンから奪ったエメラルド仏を設置した。彼はこの他数多くの寺院を建てたとされる。

彼の名を冠した有名なものとしてチャオプラヤー川に架かった最初の大橋、サパーン・プットなどがある。

テンプレート:タイ国王