日本ラグビーフットボール選手権大会
テンプレート:スポーツ大会シリーズ 日本ラグビーフットボール選手権大会(にほんラグビーフットボールたいかい)は日本ラグビーフットボール協会などが主催するラグビーの全国大会である。毎年1月から2月にかけて行われ、トップリーグ所属チームのみならず、大学チームも出場できるラグビー日本一を決める大会である。
目次
出場枠及び大会形式
出場枠は2013年-2014年シーズンのもの
出場枠
出場チーム 10チーム
- トップリーグ所属チーム 6チーム
- うち4チームはトップリーグプレーオフ出場チーム(トップリーグ1位から4位)
- 残り2チームはトップリーグ5位から8位のチームにおいて「日本選手権出場決定トーナメント」(ワイルドカード)を行い、その勝者の2チーム
- 全国大学選手権 上位4チーム
大会形式
トップリーグ優勝チーム(プレーオフトーナメント優勝)とトップリーグ2位チーム(プレーオフトーナメント準優勝)がシードとなり、準決勝からの出場となる。その他8チームがトーナメント方式で1回戦、2回戦を戦う
沿革
1960年 - 61年シーズンに日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会(以下、NHK杯)として開催されたのが当大会のルーツである。NHK杯が行われるきっかけとなったのは、1948年度より全国社会人ラグビーフットボール大会(以下、全国社会人大会)が行われていたものの、当時、社会人ラグビーは関係者以外はほとんど関心が寄せられていなかったという背景があった。
一方、大学ラグビーも、「全国制覇」を決する大会としては、対抗戦形式による東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦(以下、東西対抗ラグビー)が行われており、第二次世界大戦前後においては人気を博していたが、昭和30年代に入ると、第二次世界大戦前より強豪だった大学(俗に『伝統校』と呼ばれた)と、同大戦後に台頭してきた大学(俗に『新興校』と呼ばれた)との間における対抗戦が設けられていなかったという制度上の問題に起因して、「不戦につき優勝チームなし」というケースが続発したことから、社会人ラグビーほどではないにせよ、こちらも人気低迷に喘いでいた。
そこで、当時としては「夢の対戦」ともいうべき、社会人の王者と学生の王者が対戦する機会を設ける大会を行うことになり、1961年1月29日、秩父宮ラグビー場(以下、秩父宮)で第一回のNHK杯の開催が行われることになった。社会人側は前述の通り、全国社会人大会優勝チームが自動的に出場したが、学生側は前述の通り、当時は優勝該当チームなし、という年度が続発したことにより、秩父宮で開催された1960年度及び1962年度は、関東大学ラグビー対抗戦(以下、関東対抗戦)の優勝チームが出場した。一方、近鉄花園ラグビー場(以下、花園)で開催された1961年度は、関西大学ラグビーフットボールリーグの優勝チームである同志社大学が、関東対抗戦の優勝チームである慶應大学を、東西対抗ラグビーで破って出場を果たした。
1964年2月8日、日本協会と関東ラグビーフットボール協会(関東協会)は、1964年度のシーズンより、トーナメント方式による全国大学ラグビーフットボール選手権大会(以下、大学選手権)を開始すると表明し、東西対抗ラグビーは1963年度限りで廃止されることになった。そんな中、日本一決定戦システムのNHK杯も、招待制による方式を改めることになり、1964年3月20日と22日の2日間の日程で、真の日本一を決するべく、全国社会人大会優勝の八幡製鉄、同2位の近鉄、関東大学優秀校の法政大学、関西大学優秀校の同志社大学の4チームが参加して、第1回の当大会が花園で開催されることになった。第一回の大会では、1回戦で八幡製鉄を破った同志社が、同じく法政を破った近鉄を下し、初代当大会優勝チームとなった。
翌1964年度の秩父宮開催より、大学側の代表チームは、同年度より開始された大学選手権の優勝チームが出場することになったため、社会人側の代表チームも、全国社会人大会の優勝チームだけが出場することになり、以後暫く、大学と社会人の各優勝チームによって争われることになった(しかし後述の通り、一部の年度で例外が生じた)。また同年度より毎年1月15日の開催となったことから、以後暫く、成人の日(当時)の風物詩のひとつの大会とあいまった。
その後、1965年度、1968年度、1973年度における花園開催以外は、秩父宮で開催が行なわれてきたが、1975年1月15日(1974年度)の開催については、秩父宮の改修工事のため、国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)で代替開催されることになった。そして、国立で開催された同年度の開催が、当時6万人収容だった同競技場を満員で埋め尽くしたことを背景に、同年度以後暫く、国立競技場での開催となった。
その後の新日本製鐵釜石(現・釜石シーウェイブス)と神戸製鋼(現神戸製鋼コベルコスティーラーズ)の7連覇は有名。
しかし、昭和40年代までは拮抗していた社会人と大学のチーム力の差が、上記の新日鐵釜石、神戸製鋼の7連覇の影響で一気に拡大。そして、1月15日の固定開催としては最後となった、神戸製鋼が7連覇を達成した1995年(1994年度)の試合では、大東文化大学が14-102と惨敗したため、もはや社会人 VS 大学によるワンマッチだけでは、ラグビー日本一の称号に値しないという声がラグビー関係者の中から噴出した。そして、1997年(1996年度)2月11日に行なわれた一戦をもって、社会人 VS 大学によるワンマッチシステムは幕を閉じることになった。
1997年 - 1998年シーズンから出場枠を一部拡大し、社会人の上位3チームと大学の上位2チームの5チームで争われ、1998-1999年シーズン~2002年 - 2003年シーズンは社会人、大学ともベスト4のチームに出場資格が与えられた。
2003年 - 2004年シーズンからはさらに拡大し、トップリーグの上位8チーム、大学選手権2次予選リーグの上位6チームを始め22チームが出場できるようになり、クラブチームにも出場枠が与えられた。当初、ラグビージャパンカップという名称を使用する予定だったが、その後日本選手権の名称を引き続いて使用することになった。
しかし、開催費用と参加チームの財政的・時間的負担が多くなったことから、2004年-2005年シーズンからレギュレーションを再び変更し8チームによるトーナメントで開催することになった。出場資格は以下のとおり。
- 当該年度のトップリーグ、マイクロソフトカップ・トップ8トーナメントで優勝したチーム(※)
- それ以外のトップリーグで上位に入ったチーム(※)
- 入れ替え戦「トップチャレンジシリーズ」の1位プレーオフ(トップ・チャレンジ1)で優勝したチーム
- 全国クラブ選手権優勝チーム
- 全国大学選手権の優勝、準優勝チーム
(※)トップリーグ枠はリーグ戦の原則上位3チームであるが、リーグ戦上位3チームのいずれかがマイクロソフトカップに優勝した場合には、トップリーグ4位のチームが繰り上げ出場の権利を得る。同一チームがトップリーグとマイクロソフトカップの2冠を制した場合はトップリーグ2位のチームがマイクロソフトカップ優勝枠扱いで出場できる。
これによりトーナメントの方式も一部変更され準決勝までは4チームずつのステップラダー方式を取り入れる。
- 1回戦は全国大学選手権優勝チームと全国クラブ選手権チーム、全国大学選手権準優勝チームとトップチャレンジ1優勝チームが対戦。
- 2回戦は1回戦の勝者とトップリーグの上位チーム(トップリーグ優勝、マイクロソフトカップ優勝チーム以外)が対戦。
- その勝者とトップリーグ優勝チーム、マイクロソフトカップ優勝チームとで準決勝を行い、更にその勝者同士で決勝戦を行う。
2006年-2007年シーズンからはマイクロソフトカップがトップリーグ4強によるプレーオフとなり、その4チームがそのまま日本選手権にも出場することになった。
2008年-2009年シーズンはトップリーグの枠が拡大され、6位まで出場可能となった。そのため、トップリーグ3位-6位のチームも1回戦から出場することとなり、それぞれトップリーグ勢同士で1回戦を戦う。 なお、2009-2010シーズンについては2008-2009シーズン同様6チーム出場となるが、マイクロソフトカップ進出4チーム以外は5位-10位のチームが出場する「日本選手権出場決定トーナメント」(ワイルドカード)の勝者2チームが出場するように変更となった。
2013-2014年シーズンは全国クラブ選手権優勝チームと入れ替え戦「トップチャレンジシリーズ」の1位プレーオフ(トップ・チャレンジ1)で優勝したチームの出場権がなくなり、その分大学の枠が拡大され全国大学選手権のベスト4チームまで出場可能となった。
歴代優勝チーム
回 | 年度 | 優勝チーム | スコア | 準優勝チーム | チーム数 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会 | |||||||
1 | 1960年 | 八幡製鐵 | (社会人1位) | 50 - 13 | 日本大学 | (関東大学1位) | 2 |
2 | 1961年 | 同志社大学 | (関西大学1位) | 17 - 6 | 近鉄 | (社会人1位) | 2 |
3 | 1962年 | 八幡製鐵 | (社会人1位) | 25 - 6 | 明治大学 | (関東大学1位) | 2 |
日本ラグビーフットボール選手権大会 | |||||||
1 | 1963年 | 同志社大学 | (関西大学1位) | 18 - 3 | 近鉄 | (社会人2位) | 4 |
2 | 1964年 | 八幡製鐵 | (社会人1位) | 15 - 6 | 法政大学 | (大学1位) | 2 |
3 | 1965年 | 早稲田大学 | (大学1位) | 12 - 9 | 八幡製鐵 | (社会人1位) | 2 |
4 | 1966年 | 近鉄 | (社会人1位) | 27 - 11 | 早稲田大学 | (大学1位) | 2 |
5 | 1967年 | 近鉄 | (社会人1位) | 27 - 14 | 法政大学 | (大学1位) | 2 |
6 | 1968年 | トヨタ自動車工業 | (社会人1位) | 44 - 16 | 慶應義塾大学 | (大学1位) | 2 |
7 | 1969年 | 日本体育大学 | (大学1位) | 29 - 13 | 富士製鐵釜石 | (社会人3位) | 2 |
8 | 1970年 | 早稲田大学 | (大学1位) | 30 - 16 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 2 |
9 | 1971年 | 早稲田大学 | (大学1位) | 14 - 11 | 三菱自動車工業京都 | (社会人1位) | 2 |
10 | 1972年 | リコー | (社会人1位) | 35 - 9 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
11 | 1973年 | リコー | (社会人1位) | 25 - 3 | 早稲田大学 | (大学1位) | 2 |
12 | 1974年 | 近鉄 | (社会人1位) | 33 - 13 | 早稲田大学 | (大学1位) | 2 |
13 | 1975年 | 明治大学 | (大学1位) | 37 - 12 | 三菱自動車工業京都 | (社会人1位) | 2 |
14 | 1976年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 27 - 12 | 早稲田大学 | (大学1位) | 2 |
15 | 1977年 | トヨタ自動車工業 | (社会人1位) | 20 - 10 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
16 | 1978年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 24 - 0 | 日本体育大学 | (大学1位) | 2 |
17 | 1979年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 32 - 6 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
18 | 1980年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 10 - 3 | 同志社大学 | (大学1位) | 2 |
19 | 1981年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 30 - 14 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
20 | 1982年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 21 - 8 | 同志社大学 | (大学1位) | 2 |
21 | 1983年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 35 - 10 | 同志社大学 | (大学1位) | 2 |
22 | 1984年 | 新日本製鐵釜石 | (社会人1位) | 31 - 17 | 同志社大学 | (大学1位) | 2 |
23 | 1985年 | 慶應義塾大学 | (大学1位) | 18 - 13 | トヨタ自動車 | (社会人1位) | 2 |
24 | 1986年 | トヨタ自動車 | (社会人1位) | 26 - 6 | 大東文化大学 | (大学1位) | 2 |
25 | 1987年 | 早稲田大学 | (大学1位) | 22 - 16 | 東芝府中 | (社会人1位) | 2 |
26 | 1988年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 46 - 17 | 大東文化大学 | (大学1位) | 2 |
27 | 1989年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 58 - 4 | 早稲田大学 | (大学1位) | 2 |
28 | 1990年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 38 - 15 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
29 | 1991年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 34 - 12 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
30 | 1992年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 41 - 3 | 法政大学 | (大学1位) | 2 |
31 | 1993年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 33 - 19 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
32 | 1994年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 102 - 14 | 大東文化大学 | (大学1位) | 2 |
33 | 1995年 | サントリー | (社会人1位) | 49 - 24 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
34 | 1996年 | 東芝府中 | (社会人1位) | 69 - 8 | 明治大学 | (大学1位) | 2 |
35 | 1997年 | 東芝府中 | (社会人1位) | 35 - 11 | トヨタ自動車 | (社会人3位) | 5 |
36 | 1998年 | 東芝府中 | (社会人3位) | 24 - 13 | 神戸製鋼 | (社会人3位) | 8 |
37 | 1999年 | 神戸製鋼 | (社会人1位) | 49 - 20 | トヨタ自動車 | (社会人3位) | 8 |
38 | 2000年 | 神戸製鋼 サントリー |
(社会人1位) (社会人3位) |
27 - 27 | (史上初の両チーム優勝) | 8 | |
39 | 2001年 | サントリー | (社会人1位) | 28 - 17 | 神戸製鋼 | (社会人2位) | 6 |
40 | 2002年 | NEC | (社会人3位) | 36 - 26 | サントリー | (社会人1位) | 8 |
41 | 2003年 | 東芝府中ブレイブルーパス | (TL2位) | 22 - 10 | 神戸製鋼コベルコスティーラーズ | (TL1位) | 22 |
42 | 2004年 | NECグリーンロケッツ | (TL3位) | 17 -13 | トヨタ自動車ヴェルブリッツ | (TL4位) | 8 |
43 | 2005年 | 東芝府中ブレイブルーパス NECグリーンロケッツ |
(TL1位) (TL3位) |
6 - 6 | (5年ぶり2度目の両チーム優勝) | 8 | |
44 | 2006年 | 東芝ブレイブルーパス | (TL1位) | 19 - 10 | トヨタ自動車ヴェルブリッツ | (TL3位) | 8 |
45 | 2007年 | 三洋電機ワイルドナイツ | (TL2位) | 40 - 18 | サントリーサンゴリアス | (TL1位) | 8 |
46 | 2008年 | 三洋電機ワイルドナイツ | (TL2位) | 24 - 16 | サントリーサンゴリアス | (TL3位) | 10 |
47 | 2009年 | 三洋電機ワイルドナイツ | (TL2位) | 22 - 17 | トヨタ自動車ヴェルブリッツ | (TL3位) | 10 |
48 | 2010年 | サントリーサンゴリアス | (TL2位) | 37 - 20 | 三洋電機ワイルドナイツ | (TL1位) | 10 |
49 | 2011年 | サントリーサンゴリアス | (TL1位) | 21 - 9 | パナソニック ワイルドナイツ | (TL3位) | 10 |
50 | 2012年 | サントリーサンゴリアス | (TL1位) | 36 - 20 | 神戸製鋼コベルコスティーラーズ | (TL3位) | 10 |
51 | 2013年 | パナソニック ワイルドナイツ | (TL1位) | 30 - 21 | 東芝ブレイブルーパス | (TL3位) | 10 |
放送について
大会を共催するNHKの総合テレビにて2回戦以降の試合を生中継及び録画中継している(決勝戦は海外向けNHKワールド・プレミアムでも同時またはディレイ放送される)。かつて成人の日に開催されていた時期は、総合テレビでNHK青年の主張全国コンクール→NHK青春メッセージを放送していた関係で教育テレビで放送していた。また、決勝戦はラジオ第1放送でも放送される(NHKワールド・ラジオ日本は電波運用面の都合上、一切放送せず別番組差し替え)。
また、J SPORTSでは全試合生中継を行っている。
NHK中継をめぐる顛末
2004年度(第42回)の2回戦『トヨタ自動車 - 早稲田大学』(2005年2月12日)は当初、NHK総合テレビで生中継を行う予定になっていたが、決勝戦開催前にNHK側の都合で深夜の録画中継に変更された。これは当時NHKが特集番組改変をめぐる政治介入問題で朝日新聞と対立しており、審判のジャージの胸部分にある「朝日新聞」の表記が理由で生中継を録画に変更したものと見られるが、この変更に対しNHKに900件もの抗議が殺到。生中継を楽しみにしていたファンが秩父宮ラグビー場に足を運んだりするなどの混乱が生じた。
結局、二転三転の末、2回戦当日は深夜の録画中継から再び生中継に戻し、当初の予定通り生中継された。ただし、その日の新聞朝刊のテレビ欄では深夜のままだった。
なお、NHKには放送当日までに4,043件もの意見が寄せられた。
災害による放送チャンネル振替
2009年度(第47回)の決勝『トヨタ自動車 - 三洋電機』戦は(2010年2月28日)は当初、NHK総合テレビで生中継を行う予定になっていたが、前日発生したチリ地震により大津波警報、津波警報が発令された為同時間帯に教育テレビで放送された。
第7回日本選手権の辞退
1969年度の第7回日本選手権(1970年1月15日)では全国社会人大会優勝の近鉄、準優勝のトヨタ自動車工業、3位の三菱自動車工業京都が出場を辞退し、同率3位の富士鉄釜石(富士製鉄釜石製鉄所、後の新日鉄釜石、現在の釜石シーウェイブス)が社会人代表として日本選手権に出場した。
このシーズンは当初からタイ・バンコクで行われる第2回アジア選手権の日程が1月10日から18日までとなっており、日本選手権(通常1月15日)の日程をどうするのかが焦点であった。
第22回全国社会人ラグビー大会は、それまで通常1月2日(1回戦)から1月8日(決勝)まで行われていたが、このシーズンに限り上記アジア選手権があるため12月29日(1回戦)から1月4日(決勝)に変更して行われた。また当該シーズンの第6回全国大学ラグビー選手権は1月1日(1回戦)から1月5日(決勝)まで行われた。しかしこの重要な日本選手権の日程はアジア選手権と重複したままであった。
当時日本代表に多数の選手を輩出していた関西社会人Aリーグの各チームは日本選手権の日程順延を主張していたが、社会人大会が目前に迫っても一向にこの問題に日本協会が取り組む姿勢は見えなかった。12月28日、業を煮やした関西社会人Aリーグの加盟チームは全7チームの監督名で日本協会に対し日本選手権の日程変更を申請した。(この申請には日程変更が認められなければ日本選手権を辞退する旨も含まれていたといわれる)
当時日本選手権をアジア選手権終了後の1月25日に変更する案も考えられたが大学生の試験と重なり難しかった。多くのファンや関係者が心配するにもかかわらず、日本協会から何の日程変更もなく、社会人大会が始まり、大学選手権も始まってしまった。楽観的には「なんだかんだ言っても社会人大会優勝チームが代表選手抜きで日本選手権に参加するであろう」という見方もあった。
しかし、1月4日に社会人大会で優勝した近鉄は「関西社会人Aリーグの総意で決めたことなので、近鉄としては今も棄権する気持ちは変わらない」と表明した。あわてた日本協会は翌日1月5日の大学選手権決勝後に緊急理事会を開くことにした。そして準優勝のトヨタ自工にも3位の三菱自工京都にも日本選手権への出場を打診したがともに辞退されたので同率3位の富士鉄釜石に出場依頼することを決め、日本協会の横山通夫会長が富士製鉄本社に出場を依頼した。
富士鉄釜石チームは既に1月2日の社会人準決勝で敗れて選手・関係者は各自帰郷し休暇に入っていた。突然、市口監督に富士製鉄本社から出場の打診がなされたが、とても出場できるチーム状況ではなかった。しかし日本最高峰の試合であること、また先輩格である八幡製鉄(この3ヵ月後に富士鉄と八幡製鉄が合併し新日鉄となる)の幹部からも強い要請があり出場を決意した。しかし選手達は急遽、休暇先から雪の釜石に集められ1月8日から練習を再開し、僅か1週間で日本選手権に出場した。各自の用具も練習開始に間に合わないものも居た。そのような練習不足やモチベーション不足もあり、日本体育大学に敗れた。
また大学のほうも、大学選手権決勝で早稲田大学を僅差で破り見事に優勝した日本体育大学が日本選手権に出場したが、上記のような混乱でどこが対戦相手になるのか分からず、また相手の戦力分析も充分でない状態で日本選手権に出場することになった。結果は富士鉄釜石を破って日本選手権に見事優勝を飾った。しかし富士鉄釜石は過去に社会人での優勝経験も無く、このシーズンも社会人3位であり本当の意味での社会人ナンバーワンを破ったわけではないという陰口も聞かれた。
このように第7回日本選手権は各チーム・関係者に様々な波紋を残した。当時は「1月15日は日本選手権」が恒例化していたにもかかわらず、アジアラグビー協会の事務局を日本協会が受け持ち、アジア協会でかなりの発言権があったはずの日本協会がアジア選手権の日程を変えられなかったのか、あるいは日本選手権の日程を大学生の試験後の2月に変更できなかったのか、非常に疑問が残る大会であった。
なお、第2回アジア選手権は関西社会人Aリーグから13名の選手が選ばれた日本代表が2連覇を飾った。