マラケシュ

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テンプレート:Redirect テンプレート:世界の市 マラケシュ (مراكش marrākish)は、モロッコ中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市で、「南方産の真珠」と呼ばれてきた。

概要

マラケシュは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush)を意味する。北緯32度、西経8度、標高450mに位置する。気候はステップ気候に属する。人口は66万人であり、カサブランカラバトにつぐモロッコ第3の都市でもある。(日本版ウィキペディアフェズの項には、フェズの「2004年の人口は、94万6815人」とある。)

アトラス山脈のうち最も険しい大アトラス山脈の北に位置する。南方45kmには北アフリカ最高峰のトゥブカル山 (4165m) がそびえる。町の東側にはイシル川が流れ、大西洋に注ぐテンシフト川につながる。郊外にはオアシスが点在する。

マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなる。新市街の西端にマラケシュ駅が位置する。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などを含む。マラケシュ駅はターミナル駅であり、北に向かってカサブランカ、東へ折れてラバトフェズへ延びる。町の北10kmの位置に国際空港が広がる。

歴史

マラケシュを都市化したのは、ムラービト朝ユースフ・ブン・ターシュフィン(位1061年~1107年)であった。1071年以来本格的な整備を行い、モスクの建設、灌漑路の整備などを行った。また子のアリー・ブン・ユースフ(位1107年~43年)の時代にもモスクが建設され、1120年にクバ・アル・バディンの霊廟が建設された。クバ・アル・バディンは、もとは、アリー・ブン・ユースフ・モスクの一部をなしていたと思われる。

ムラービト朝時代にはもっとたくさんの建造物が建てられたはずであるが、ほとんどがムワッヒド朝時代に取り壊された。1147年、ムワッヒド朝の君主、アブド=アル=ムーミニーンが建てたクトゥビーヤ・モスクミナレットは、77mに達し、マラケシュの旧市街の象徴的な建造物である。そのほかムワッヒド朝の君主が宮殿に行く途中に設けられたアーチの周辺に花弁状の文様が同心円状に施されたアグノー門や27の橋脚に支えられたテンシフト橋が架けられた。

サアド朝時代には、アフメッド=ル=マンスール王のエル=バディ宮殿が建てられたがアラウィー朝時代にさっそくほとんどが取り壊され、パレード用の広い庭が残されて、毎年、民俗芸能の祭典を行うのに使われている。19世紀に、アラウィー朝の王によって化粧漆喰アラベスク模様で飾られたバイーヤ宮殿とアグダル庭園が造られた。このような貴重な歴史的建造物の豊富なマラケシュの旧市街地は、1985年に世界遺産に登録された。

無形文化遺産

マラケシュはユネスコ世界遺産に登録されるとともに、ジャマエルフナ広場の文化空間について、無形文化遺産保護条約の発効以前の2001年に「傑作の宣言」(第1回)がなされ「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、ユネスコの無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の初の登録で正式に登録された。

  • ジャマエルフナ広場の文化空間
城壁に囲まれた旧市街の中心にある約400m四方のジャマエルフナ広場は、文化と交易の中心として栄えてきた。現在では、屋台や大道芸でにぎわう。ジャマエルフナ (Djemaa el Fna) とは、アラビア語で死人の集会場を意味する。

世界遺産

テンプレート:Infobox この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

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外部リンク

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