マサチューセッツ (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
300px
艦歴
発注 1938年12月15日
起工 1939年7月20日
進水 1941年9月23日
就役 1942年5月12日
退役 1947年3月27日
その後 博物館船として公開
性能諸元
排水量 基準:35,000トン、満載:44,374トン
全長 207.36m
全幅 32.95m
吃水 10.35m
機関 蒸気タービン4機4軸 130,000 馬力(97 MW)
最大速 27ノット
乗員 士官:115名 兵員:1,678名
兵装 45口径40.6cm砲:9門
38口径12.7cm砲:20門
56口径40mm対空砲:24門
70口径20mm対空砲:35門

マサチューセッツ (USS Massachusetts, BB-59) はアメリカ海軍戦艦サウスダコタ級戦艦の3番艦。艦名はアメリカ合衆国6番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては7隻目。

艦歴

マサチューセッツは1939年7月20日にマサチューセッツ州クインシーベスレヘム・スチール社で起工した。1941年9月23日にフランシス・ラヴァリング・アダムズ(チャールズ・フランシス・アダムズ (3世)の夫人)によって命名、進水し、ボストンで1942年5月12日に初代艦長フランシス・E・M・ホィッティング大佐の指揮下就役した。

就役後の整調訓練が完了すると1942年10月24日にメイン州カスコ湾を出港、4日後に北アフリカ侵攻作戦参加のため西部方面任務群と合流、H・ケント・ヒューイット提督の旗艦となった。11月8日にカサブランカ沖合でフランス戦艦ジャン・バールの砲撃を受ける。07:40に反撃を行い、ヨーロッパの枢軸勢力に対して砲撃を行った初のアメリカ軍艦艇となった。数分後にジャン・バールは沈黙し、続いてフランス駆逐艦に対して砲撃、二隻を撃沈した。さらに沿岸砲台に向けて砲撃を行い、弾薬庫を破壊した。フランス軍との停戦が成立すると、11月12日に帰国の途につき、太平洋戦線へ向かう準備を行った。

1943年3月4日ニューカレドニアヌーメアに到着した。11月19日から21日ギルバート諸島マキンタラワアベママを攻撃した空母群と行動した。12月8日ナウル砲撃。1944年1月30日クェゼリンを砲撃、2月1日上陸を支援した。4月22日ホーランディア侵攻に参加。5月1日ポナペ島砲撃。その後ピュージェット・サウンドでオーバーホールした。

ファイル:MassKamaichi.jpg
釜石市を砲撃するマサチューセッツ、1945年7月14日

マサチューセッツは8月1日に真珠湾を出港した。10月6日、マーシャル諸島を出撃しレイテ島上陸作戦の支援に向かいレイテ沖海戦に参加した。12月17日、ミンドロ島侵攻支援中に台風に遭遇した。12月30日から1945年1月23日の間は台湾を攻撃、リンガエン湾上陸支援を行った第38任務部隊に所属していた。その後沖縄戦に参加した。6月10日南大東島に砲撃を実施した。

マサチューセッツは1945年7月1日にレイテ湾を出航、第3艦隊の日本本土に対する最終攻撃に合流した。東京空襲に向かう空母部隊の護衛を行った後、7月14日に釜石を砲撃、日本で二番目の規模の製鉄所を破壊し2週間後浜松を砲撃、石油コンビナートを破壊した。8月9日再び釜石を砲撃。ここでの砲撃は第二次世界大戦最後の16インチ砲の発射である。

大戦後

戦争が終わり、マサチューセッツは9月1日にピュージェット・サウンド海軍工廠オーバーホールのため向かった。作業が完了すると1946年1月28日にカリフォルニア沖に向けて出航、その後サンフランシスコからハンプトン・ローズに向かい、4月22日に到着した。マサチューセッツは1947年3月27日に退役し、バージニア州ノーフォークの大西洋艦隊予備役艦隊入りする。その後1962年6月1日に除籍された。

「ビッグ・マミー Big Mamie」は1965年6月8日にマサチューセッツ記念委員会の管理に移され、スクラップの運命から救われた。1965年8月14日にマサチューセッツ州フォール・リバーに係留され、第二次世界大戦に自らの命を捧げた人々の記念碑として現在も公開されている。

1980年代にレーガン政権が「600隻海軍」構想の下アイオワ級戦艦4隻を再就役させた際、海軍はマサチューセッツの設備及び部品を用いてアイオワ級を補修した。1998年にマサチューセッツはオーバーホールのためボストン湾の3番乾ドックに牽引され、翌年フォール・リバーに戻された。

マサチューセッツは第二次世界大戦の戦功により11個の従軍星章を受章した。

外部リンク

テンプレート:Sister


テンプレート:サウスダコタ級戦艦 (1939)テンプレート:Link GA