トクタ

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トクタToqta, Toqtay, ? - 1312年)は、ジョチ・ウルスの第9代ハン(在位:1291年 - 1312年)。第6代ハン・モンケ・テムルの五男。漢語資料では脱脱として表れ、アラビア語資料では توقتا Tūqtā、ペルシア語資料では توقتاى Tūqtāy とも。母は、トルイ家の王女ケルミシュ・アカ・ハトゥンとジョチ家所属のコンギラト部族の首長サルチダイ・ノヤンとの娘オルジェイ・ハトゥン。同母兄弟にはモンケ・テムルの長男アルグイがいる。バトゥ曾孫のひとり。

生涯

マムルーク朝の歴史家ヌワイリーによると、ハンに即位した従兄弟のトレ・ブカと西方の有力者ノガイが対立したときノガイと手を結び、ノガイの協力によってトレ・ブカと一味を殺害してハンに推戴された。トクタがノガイを頼った理由についてヌワイリーの資料に言及は無いが、『集史』はトレ・ブカ兄弟に命を狙われたため、トクタはノガイを頼ったと記している[1]

即位後トクタは岳父のウイグル人サルジダイを重用した。サルジダイとノガイは縁戚であったが、両家は互いの信仰の違いで対立した。ノガイは敵対するサルジダイの引き渡しをトクタに要求するが、トクタはこれを拒絶した。またトクタの元から逃亡した将校の処遇をノガイが保護したことで両者の関係は悪化し、ヒジュラ暦697年(1297年-1298年)にトクタとノガイの軍事衝突が始まった。1299年にノガイを殺害、ヒジュラ暦701年(1301年-1302年)にノガイの末子トライの処刑をもってノガイ一族との内戦を終結させた。

トクタ本人はムスリムではなかったが、宗教に対しては公平であり、ムスリムの学者を信任した。財政面ではジョチ・ウルス初となる紙幣を発行して財政を潤わせテンプレート:要出典、外交においてもイルハン朝に対してはガザンオルジェイトゥの即位に祝賀の使節を送り、モンケ・テムル以来の政策を維持した。またカッファジェノヴァ人と北方の異教徒が自国の児童をさらってイスラム諸国に奴隷として転売しているという領民の訴えを聴くと、その報復としてカッファへ派兵した。

家庭的には不幸な人物であり、2人の息子はトクタの統治政策に反対して内乱を起こして国を追われた。トライに唆されてトクタに反旗を翻した兄弟サライ・ブカを処刑、サライ・ブカと共に反乱を起こした別の兄弟ブルルクは国外に亡命した。彼の死後、甥のウズベク・ハンが跡を継いだが、ウズベクの簒奪を記録する史料は少なくない。

マムルーク朝の歴史家ドゥクマク、ジャライル朝史料『シャイフ・ウヴァイス伝』[2]『モンゴル帝国史』[3]は、ウズベクがイル・バサルをはじめとするトクタの一族を殺害してハンに即位したとある。ウズベクの即位に好意的である『ドスト・スルタン史』[4]は、トクタは子のイル・バサルに跡を継がせるため兄弟、イル・バサル以外の子孫を根絶やしにするが、イル・バサルは早世し[5]、粛清から生き延びたウズベクを後継者に指名したと伝える。

トデゲンの破壊

トクタの即位前、ペレヤスラヴリドミトリーゴロジェッツアンドレイウラジーミル大公の位を争い、ドミトリーはノガイ、アンドレイはサライのハンの支援を受けていた。即位直後の1292年にアンドレイを筆頭とするルーシ諸侯は、トクタにドミトリーへの制裁を請願した。トクタは最初支持者であったノガイと同じくドミトリーの支持を考えていたが、ドミトリーがルーシ内で優位を確立しつつある状況をふまえてアンドレイに与し、兄弟のトデゲンを指揮官とする軍隊をウラジーミルに派遣した。トデゲン、アンドレイ、ヤロスラヴリ公フェオドルたちはウラジーミルを占領し、スーズダリ・ペレヤスラヴリ・モスクワなど周辺の14の都市を破壊、略奪した。 このトデゲンの侵入は、バトゥの大遠征、以来ルーシ諸侯がモンゴルより受けた軍事的制裁の中で最大のものであった。

宗室

父母

子息

  • Yābŭš
  • イル・バサル
  • クルチュ・ベク

参考文献

  • C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透 訳注、東洋文庫、平凡社、1979年11月)
  • 川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『岩波講座 世界歴史11―中央ユーラシアの統合』収録、岩波書店、1997年11月)
  • 三浦清美『ロシアの源流―中心なき森と草原から第三のローマへ』(講談社選書メチエ、講談社、2003年7月)
  • 赤坂恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』(風間書房、2005年2月)
  • 杉山正明、北川誠一『大モンゴルの時代』(世界の歴史、中央公論新社、2008年8月)

脚注

テンプレート:Reflist

先代:
トレ・ブカ
ジョチ・ウルス
1291年 - 1312年
次代:
ウズベク・ハン
  1. C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透訳注)、403-407頁
  2. 川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『岩波講座 世界歴史11―中央ユーラシアの統合』収録)、278-282頁
  3. C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透 訳注)、242-243頁
  4. 川口琢司「キプチャク草原とロシア」(『岩波講座 世界歴史11―中央ユーラシアの統合』収録, 岩波書店.1997年11月)、279-280頁
  5. ヌワイリーによると、ヒジュラ暦707年(1307年 - 1308年)にイル・バサルが死去したとある。ウズベクの即位の過程について、ヌワイリーの記述は引用した書籍の中には無い。C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』6巻(佐口透訳注)、402頁