ジョー・コール

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テンプレート:サッカー選手 ジョゼフ・ジョン・"ジョー"・コール(Joseph John "Joe" Cole, 1981年11月8日 - )は、イングランドウェストミンスターパディントン出身の元同国代表サッカー選手アストン・ヴィラFC所属。ポジションはミッドフィールダー

来歴

クラブ

ウェストハム・ユナイテッドの下部組織で育ち、1999年、わずか17歳でトップデビューを果たす。ウェストハムではキャプテンを努めるほどに成長するが、02/03シーズンに自身の怪我もありチームは降格してしまう。これを機に2003年8月6日CL出場と代表定着のために660万ポンドでチェルシーFCに移籍。アブラモヴィッチ体制初年度の注目選手の一人として背番号10を背負う。しかし、フアン・セバスティアン・ベロンら他の新加入選手の存在もあり、クラウディオ・ラニエリ監督の下、不遇のシーズンになる。しかしベロンからは、その技術の高さを絶賛された。

翌04/05シーズンはジョゼ・モウリーニョ監督の就任に伴い、新たな仕事場を得る。シーズン当初はサブとして起用されていたが、左ウイングアリエン・ロッベンの負傷で、モウリーニョはダミアン・ダフを左ウイングへ回し、コールを右ウイングで起用する。これが見事に嵌り、持ち前のドリブルを生かしたプレーが増えた。モウリーニョの指導で守備も改善し、フィジカル面でも成長を見せた。近年では、トップ下でプレイすることも多い。

09/10シーズン終了後に契約満了によりチェルシーを退団し、7月19日ヨッシ・ベナユンと入れ替わる形でリヴァプールFCに移籍。移籍金なしの4年契約で、背番号はチェルシー在籍時と同じ10。リヴァプールでは即戦力として期待されたものの、故障やロイ・ホジソン監督の戦術に適応できなかったこともあり思うような活躍は披露できなかった。2011年8月31日フランスLOSCリール・メトロポールレンタル移籍。背番号はウェストハム在籍時と同じ26。

2013年1月4日にウェストハムにフリートランスファーで約10年ぶりに復帰した[1]

代表

2001年5月25日メキシコ戦にてフル代表デビューを果たす。 2002年FIFAワールドカップのメンバーに選ばれたが途中出場のたった1度だけの出場に終わった。 ユーロ2004のメンバーだったが大会では出場機会に恵まれなかった。

なかなかスタメンに定着できなかったが、モウリーニョ監督の下で発展を遂げると、イングランド代表の課題であった左ミッドフィールダーのポジションでも一気に頭角をあらわし2006 FIFAワールドカップ予選でもすばらしい活躍を見せた。本戦においても、対スウェーデン戦でゴール前のこぼれ球から胸トラップし、ドライブ回転のかかった驚異的なロングシュートを記録して観客の度肝を抜いた。

2010年FIFAワールドカップは、カペッロ監督の下で代表入りした。背番号は11。

人物

  • 実家は果物屋。
  • 一家揃ってチェルシーのファンで、自身も少年時代からの大ファン。
  • テレビゲームが好きで、PS2ゲームのプロエボリューションサッカー(ウイニングイレブン)が得意。チェルシー時代にジョン・テリーが催したチーム内の大会で優勝し自前のトロフィーを獲得したという。
  • ジョゼ・モウリーニョの手により才能をさらに開花させたが、モウリーニョの指導で最も大きかったのは、「食事改善」であったと語っている。
  • ブラジルの英雄のジーコをアイドル視しており、パソコンのスクリーンセーバーをジーコにしているという。
  • センタリングがよく相手ディフェンダーの手に当たってPKになることから、「ハンド取りの名人」と呼ばれたことがある。
  • 2009年6月20日に、カーリー・ザッカーと結婚。9月15日に、妊娠を発表。2010年3月18日に、第一子となる女の子が誕生しタチアナと命名。
  • 2009年シーズンは右膝十字靭帯を損傷し、解説者として知的な側面を見せていた。

所属クラブ

→ 2011年 - 2012年 テンプレート:Flagicon LOSCリール・メトロポール (loan)

獲得タイトル

チェルシー時代

出典

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外部リンク

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