アルベルト・シュバイツァー

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ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1952年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:

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アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer, 1875年1月14日 - 1965年9月4日)は、ドイツ出身のアルザス人で、フランス神学者哲学者医者オルガニスト音楽学者

概要

マザー・テレサマハトマ・ガンディーと並び、20世紀ヒューマニストとして知られている人物である。30歳の時、医療伝道に生きることを志し、アフリカ赤道直下の国ガボンランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされている。日本においては、内村鑑三などによって古くから紹介され、その生涯は児童向けの偉人伝において親しまれている。

哲学でも業績を残し、「生命への畏敬」の概念で世界平和にも貢献した。「密林の聖者」と呼ばれている。また、音楽にも精通し、バッハ研究でも有名である。「人生の惨めさから脱け出す唯一の方法は音楽とだ」という言葉を残している[1]。生まれつき非常に頑健であまり疲れない身体を持っていた。

生涯

シュヴァイツァーは、1875年に当時、ドイツ帝国領だったオーバーエルザスのKaisersbergカイザースベルク(「皇帝の山」の意。現在のフランス領アルザスオー=ラン県ケゼルスベール)で牧師の子として生まれる。アルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)地方は、独仏の領有争いが行われた紛争地であり、地名の変遷にもそれが表れている。父はルートヴィヒ、母はアデーレ。生後1カ月で家族は南東約60キロほどにあるミュンスタータールに移住。

当時のドイツにおいて牧師は社会的地位が高く、シュヴァイツァーの家庭は比較的裕福な部類であった。幼い頃、同級生の少年と取っ組み合いの喧嘩をして、シュヴァイツァーが相手を組み伏せた時、相手の少年はシュヴァイツァーに向かって「俺だって、お前の家みたいに肉入りのスープを飲ませてもらえれば負けやしないんだ!」と叫んだ。これを聞いたシュヴァイツァーは心に激しい衝撃を受け、「同じ人間なのに、なぜ自分だけが他の子供たちと違って恵まれた生活をしているのか」と、子供心に本気で苦悩したという。この時にシュヴァイツァーが抱いた苦悩こそ、その後の彼の一生を決定付ける重要な出来事であった。

7歳の頃からピアノを習い、14歳の頃からパイプオルガンを習う。これは後のバッハの研究の下地となる。リセ(Lycée(正確にはジムナーズ=ギムナジウム(Gymnase)を卒業後、名門ストラスブール大学に入学する。ストラスブール大学で、神学博士・哲学博士を取得する。哲学の学位論文は『カントの宗教哲学』、神学の学位論文は『19世紀の科学的研究および歴史記録による聖餐問題』であった。

27歳でストラスブール大学神学科講師となる。

21歳の時、「30歳までは芸術と科学を身に付けることに専念し、30歳からは世のために尽くす」と決意して、30歳から新たにストラスブール大学の医学部に学ぶ。これは、キリストが30歳から布教活動を始めたという故事に倣ったものであった。神学科の講師でありながら医学部の学生となるのは、特例として認められたものである。

38歳の時に医学博士の学位を得、当時医療施設に困っていたガボン(当時仏領赤道アフリカの一部)のランバレネで活動しようと決め、旅立つ。41歳のとき、「生命への畏敬」(Ehrfurcht vor dem Leben)という概念にたどり着く。この概念は、後の世界平和への訴えとなった。医療活動も第一次世界大戦などによって、中断され、ガボンがフランス領であったために、国籍がドイツであったシュヴァイツァーは、捕虜となりヨーロッパへ帰還させられる。

保釈後、ヨーロッパ各地で講演および、病院の資金援助のためにパイプオルガンの演奏活動を行い名声を得るとともにシュヴァイツァーの活動が次第に世間に知れ渡るようになる。その後も、助手らにも病院を任せ、アフリカでの医療活動とヨーロッパにおける講演活動とを行き来を繰り返す。その献身的な医療奉仕活動が評価され、1952年度のノーベル平和賞を受賞する。

1957年後よりへの反対を公言するようになる。バートランド・ラッセルパブロ・カザルスノーマン・カズンズらと親しくなり、反対運動にも参加する。1962年には、アメリカ合衆国のケネディ大統領]]に手紙を出し、その中で、子どもたちへの放射能の遺伝的影響という問題に関心をもってほしいと、依願している。

晩年もランバレネにおける医療活動を継続する。

1965年に90歳で死去し、同地に埋葬された。好物は風月堂ゴーフルであり、ランバレネを訪れる日本人はゴーフルを持参するのが通例だった。

思想家・音楽研究家としての著作に、『カントの宗教哲学』『バッハ』(いずれも日本語訳あり)がある。神学者としての著作の『イエス伝』は、イエス伝の研究史的見地から労作であり、現在においても評価が高い。

他にゲーテインド思想などにも言及しており、日本でも白水社より全集が刊行されている。なかでも主著として扱われているのが『水と原生林の間で』である。

シュヴァイツァーに対する評価

テンプレート:Amboxテンプレート:DMC フランスの実存主義哲学者サルトルの親戚(サルトルの母といとこ同士)でもあるシュヴァイツアーは、哲学的な思想でも知られている。彼はヨーロッパの古き良き人文主義の伝統を引き継ぎながら、20世紀の人類社会が直面する問題を解決するための思想を編み出した。

シュヴァイツアーは、人生世界肯定的でなおかつ倫理的な思想が必要だと考えた。つまりそれは単なる皮相な楽観主義に陥らずなおかつ世界を改良するための思想である。その結果彼が編み出した概念が「生命への畏敬」である。すべての人間はその中に生命の意志をもっているのであり、自分の内外にあるそれを尊重する思想、それが「生命への畏敬」に他ならない。

その一方で、一般にはキリスト教の伝道と医療活動およびその平和活動を通して、シュヴァイツァーの活動は高く評価されているが、日本の児童文学者寺村輝夫伝記『アフリカのシュバイツァー』で記しているように、実はアフリカ現地での評判は決してよいものではない。

自らの神学思想を現地の文化より優先し、また同時代の知識人たちの大半と同様に白人優位主義者の側面を持っていたことも事実である。現に、シュヴァイツァーは「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、あくまで白人を兄、黒人を弟として扱っていたため、アフリカの一部の保守階層を中心に、ヨーロッパの列強の帝国主義侵略戦争植民地支配のシンボルと見なしている者も少なくない。とはいえ、「黒人は人間ではない」と見なして露骨に差別・排除する習慣が当たり前であった当時のヨーロッパ全体の風潮と比較すれば、曲がりなりにも白人と黒人を「兄弟」として位置付けていたシュヴァイツァーの思想はそれなりに進歩的だったとも言える。

音楽家としてのシュヴァイツァー

シュヴァイツァーは、音楽の世界でも価値ある業績を残した。彼はオイゲン・ミュンヒ(指揮者シャルル・ミュンシュの叔父である)と、シャルル・マリー・ヴィドールにオルガンを学び、J.S.バッハに深い傾倒を示した。

その著作『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』(1904年フランス語による初版、1908年ドイツ語による増補版、邦訳あり)は、厳密な歴史研究の点では、既に過去の文献となっている。しかし、随所に彼のバッハへの深い理解と鋭い直感がみられ、魅力的な作曲家像を描くことに成功しており、いまなお一読の価値を失っていない。

また、その序文でヴィドールが述べているように、実践的な音楽家としての視点が反映されているのが大きな特色で、当時一般的だったロマン的な誇張の多いバッハ演奏に異議を唱え、歴史的な根拠を元にした演奏法の研究による解釈の重要性を説いている。これは20世紀の演奏史上画期的な視点であり、今日のいわゆる「オーセンティックな演奏様式」のさきがけとなったものであった。

オルガン奏者としては、若き日にはパリのバッハ協会のオルガニストをつとめたほどの腕を持っており、第二次世界大戦後の晩年にいたるまで公開演奏を行っていた。1935年以降に行った録音も残されているが、解釈の深さに比して技巧的な弱さがみられ、必ずしもその技量を十全に伝えるものにはなっていないといわれている。

係累

ジャン=ポール・サルトルは伯父シャルル(1844年 - 1935年)の孫(いとこにあたるアン・マリ-の息子)にあたる。ルノーの前代表取締役のルイ・シュヴァイツァー(Louis Schweitzer)はいとこの孫に当たる。また、弟パウル・シュヴァイツァーは指揮者シャルル・ミュンシュの姉エマと結婚した。

表記について

名のAlbertはドイツ語の20世紀前半まで規範とされた舞台ドイツ語の発音では「アルベルト」だが(現代のドイツ語の発音では「アルベアト」ないしは「アルバート」)、フランス語では「アルベール」となる。

脚注

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外部リンク

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