シラクサ

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テンプレート:コムーネ シラクサテンプレート:Lang-itテンプレート:IPA audio link)は、イタリア共和国シチリア島南東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体コムーネ)。シラクサ県の県都である。標準イタリア語の発音に近い表記は「シラクーザ」。

古代ギリシャの植民都市シュラクサイに起源を持つ都市で、歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。2005年には市内および周辺の歴史的建造物や遺跡が「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で世界遺産に登録もされている。

名称

Siracusaテンプレート:IPA-it [1]と発音される。日本語文献では慣用的に[2]シラクサ[3]と表記されるが、発音に近いカナ転記の「シラクーザ[3][4][5]も用いられる。このほか、「シラクザ」[2]、「シラクーサ」[6]などとも表記される。

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

地理

位置・広がり

シチリア島の南東部、シラクーザ県の東部に位置するコムーネで、東にイオニア海に面する。シラクサの市街は、カターニアから南南東へ約51km、ラグーザから東北東へ約53km、メッシーナから南南西約127km、州都パレルモから南東へ約206kmの距離にある。沖合の小島オルティジア島(Ortigia)もシラクサ市の一部である。

シラクサの近くには、カターニアノートモーディカラグーザといった都市がある。

隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。

歴史

古代

テンプレート:Main 紀元前734年頃、ギリシアコリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ(Sirako)と名づけたのが起源である。土地が肥沃であり、また原住民たちは彼らに好意的であった。都市は発展し、地中海においてギリシア植民市のうちで最も繁栄する都市国家となった。古典ギリシア語での名称はシュラクサイという。

紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争でシチリアでも勢力を拡大しようとするアテナイに対してスパルタと結んで戦った。シュラクサイはアテナイの敵であるスパルタに援軍を送り、アテナイの船を破壊したり、島を包囲して餓死させるなどして、スパルタの勝利に貢献した。

紀元前4世紀初頭、僭主ディオニュシオス1世カルタゴに対して戦争を仕掛け、シチリア島全域を支配することに成功した。彼の死後支配権を継承した子のディオニュシオス2世は親戚(1世の義弟)のディオンによって廃位された。プラトンの弟子でもあり、哲人政治の理想を追い求めていたディオンは暗殺され、数名の僭主の後にディオニュシオス2世が復位した。その後、コリントスよりティモレオンが派遣されてきて、彼はディオニュシオス2世をはじめシチリアから僭主を一掃し、さらにヒケタスと結んで攻め込んできたカルタゴ軍をクリミソス川の戦いで破り、撃退した。しかし、紀元前317年にアガトクレスが僭主となり、僭主制が復活した。

シラクサ出身で最も有名な一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、第二次ポエニ戦争におけるローマによるシラクサの包囲に対抗するための軍事兵器もあった。アルキメデス考案の兵器はローマ軍を大いに苦しめ、シラクサは3年間持ちこたえたが、紀元前212年に陥落した。落城の際、攻城戦を指揮したローマの将軍マルクス・クラウディウス・マルケッルスはアルキメデスを殺さぬよう厳命していたが、アルキメデスは彼と気付かれずにローマ兵によって殺された。

ローマ支配から中世にかけて

年月をかけゆっくりと衰退しながらも、シラクサはシチリアにおけるローマ政権の首都の地位にあり、プラエトルの配置がされていた。また、市は帝国の東西の間にある通商の重要港のままだった。市のキリスト教化は、タルススのパウルスと、シラクサ初代司教であった聖マルツィアーノによって広がった。マルツィアーノは、シラクサを西方における改宗の一代中心地としたのである。この迫害の時代に、どっしりとしたカタコンベが掘られた。

ヴァンダル族支配の後、シラクサとシチリア本島は東ローマ帝国ベリサリウスによってローマ人の元に取り戻された(535年12月31日)。663年から668年、シラクサはコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。

878年に起きた別の包囲戦は、市への情け容赦ない略奪で終わった。そして2世紀にも渡るイスラム支配が始まったのである。シラクサは島の首都の地位をパレルモに奪われた。大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物は次第にイスラム様式に沿って再建された。どのようであれ、市は、重要な通商関係を保ち、文化と芸術が同時期に華開いた。12世紀のシチリア人詩人で最重要の人物であるイブン・ハムディスは、シラクサに暮らしていた。

1028年、東ローマの将軍ゲオルギオス・マニアケス(en:George Maniaces)がシラクサを再征服し、聖ルチアの聖遺物をコンスタンティノープルへ送った。オルティジア島の最南端にある城は、1239年にホーエンシュタウフェン家のフェデリーコ2世の命で建設されたが、マニアケスの名前が冠されている。その後、シラクサはホーエンシュタウフェン家の支配に入った。1085年、ノルマン人サラセン人最後の要塞の一つシラクサへ入った。ルッジェーロ1世とシラクサ伯ジョルダーノが夏季の長い包囲戦の末勝ったのである。新たな地区が建設され、他の教会と同様に大聖堂が復興した。

1194年、シュヴァーベン家神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシラクサを占領した。1205年から1220年までの短期のジェノヴァ支配の後、シラクサは皇帝フリードリヒ2世が奪回した。彼はマニアーチェ城、司教宮殿、ベッロモ宮殿の建設を始めた。フリードリヒの死で社会的不安と封建制の無秩序の時代が始まった。アンジュー家アラゴン王家の争いで、シラクサはアラゴン側に立ち、1298年にアンジュー家を敗退させた。この褒美として、宗主国アラゴンから多大な特権を授けられた。地元の有力貴族の優越ぶりが、アベラ、キアラモンテナヴァモンタルトへの城の建設で見せつけられた。

近代と現代

シラクサは、1542年と1693年の二度、破滅的な地震に見舞われ、1729年にはペストが大流行した。17世紀の破壊は、ヴァル・ディ・ノート全体と同様に、シラクサの外観を永久に変えた。地震被害にあった都市は、典型的なシチリア・バロック様式に沿って再建され、この様式は南イタリア芸術の典型的な例とされている。1837年のコレラ大流行は、ブルボン家支配に対する反乱を引き起こした。処罰としてシラクサからノートへ県都が移されたが、社会不安が全体的に阻止されることなく、シラクサ人は1848年シチリア独立革命en:Sicilian revolution of independence of 1848)に立ち上がった。

1865年のイタリア統一運動後、シラクサは県都の地位を取り戻した。1870年、荒れるがままであった市壁と、オルティジア島と本土とをつないでいた橋が再建された。同じ年、鉄道網が建設された。

1943年、連合国側とナチス・ドイツの空爆で激しく市は破壊された。連合国側のシチリア侵攻の際のハスキー作戦は、島西部を攻撃するイギリス軍とともに1943年7月9日から10日の夜にかけ始められた。バーナード・モントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍団は、ほとんど抵抗なしに侵入最初の日にシラクサを占領した。港はイギリス海軍の基地として使われた[7]。市の西部には、およそ1000人が埋葬された戦没者墓地がある。第二次世界大戦後、シラクサの北部地区は激しく、しばしば混沌とした、素早い工業化による過程で生じた拡大を経験した。

みどころ

古代の建築物

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  • アポロ神殿 - 東ローマ時代にキリスト教教会に、アラブ人支配時代にはモスクとなった。ノルマン時代には再びキリスト教教会になり、スペイン支配下で兵舎に転用される。近代の都市整備で一帯を埋めていた中世の建物が撤去され、再発見される。
  • アレテュサの泉(Fountain of Arethusa) - オルティジア島にある。伝説によれば、ニンフアレトゥサが河神アルペイオスに追われ、この泉に身を変えたとされる。
  • 古代ギリシャ時代の劇場 -この劇場の階級別座席(cavea)は、かつて古代ギリシアで建造されてものとしては最大規模である。8つの(階段)通路により9つのセクションに分かれ、67列(段)で1万5千の座席があった。建造物(今も使用されるが)は、ローマ時代に円形闘技場のような見世物興業に合うよう変更された。劇場の近くには古代に石牢として使用された採石場があり、最も有名なのはオレッキオ・ディ・ディオニジオ(en:Ear of Dionysius)だ。
  • アンフィテアトルム - ローマ円形闘技場。この種の闘技場としてはシチリア最大で、B.C.1世紀頃、半分は岩をくりぬき、残りは切石を積んでつくられた。
  • ローマ時代の墓、通称『アルキメデスの墓』 - 2本のドーリア式円柱で装飾されている
  • オリンピアのゼウス神殿 - シラクサ郊外3kmにあり、紀元前6世紀頃の建築

教会

  • シラクーザ大聖堂 - 古代のドリス式アテナ神殿が、7世紀にゾシモ司教によって転用された。現在でもドリス式円柱などの神殿構造を見ることができる。本堂一つと2つの側廊からなる。本堂の屋根、アプス内のモザイク画はノルマン時代からのもの。ファサードは18世紀に再建された。16世紀のピエトロ・リッツォによる聖ルチアの銀製像、ルイージ・ヴァンヴィテッリ作の天蓋、アントネロ・ガジーニによる『雪の聖母』像が有名。
  • サンタ・ルチア聖堂 - 東ローマ時代の建築。伝説によれば、聖ルチアが303年に殉教した場所に建てられたという。現在の姿は、15世紀から16世紀にかけ建てられたもの。古い部分は入り口とアプスに未だ保存されている。教会地下には『聖ルチアのカタコンブ』がある。
  • サン・パオロ教会(18世紀)
  • サン・クリストフォロ教会(14世紀建設、18世紀再建)
  • サンタ・ルチア・アッラ・バディーア教会 - 1693年の地震後、バロック様式の大建築物として建てられた
  • サンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会(13世紀)
  • スピリト・サント教会(18世紀)
  • イエズス会派教会
  • サン・ベネデット教会(16世紀、1693年以降再建) - マリオ・ミンニティによる『聖ベネディクトゥスの死』を所蔵する
  • コンチェジオーネ教会(14世紀、18世紀再建) - ベネディクト会派修道院を併設
  • サン・フランチェスコ・アッリンマコラータ教会
  • サン・ジョヴァンニ聖堂 - ノルマン人によって建設され、1693年の地震で破壊された。主祭壇はビザンツ様式。サン・ジョヴァンニのカタコンブを含む。

その他

  • マニアーチェ城(en:Castello Maniace) - 1232年から1240年にかけ建設。フリードリヒ2世皇帝時代の軍事建築。
  • 考古学博物館 - 青銅器時代から紀元前5世紀までの発掘品を所蔵
  • パラッツォ・ランツァ・ブッケリ(16世紀)
  • パラッツォ・メルグレーゼ=モンタルト(14世紀)
  • 大司教宮殿(17世紀) - 18世紀後期にできたアラゴン図書館を含む
  • パラッツォ・ヴェルメクシオ - 現在の市庁舎。
  • パラッツォ・フランチカ・ナヴァ
  • パラッツォ・ベネヴェンターノ・デル・ボスコ - 原型は中世に建てられた。
  • パラッツォ・ミリアッチョ(15世紀)
  • エウリュアロスの要塞 - 市の西側に広がる「エピポライの台地」西端に、僭主ディオニシウスが建てた古代の要塞。エウリアロ(Eurialo)、エピポリ(Épipoli)とも。


世界遺産登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

姉妹都市

人物

著名な出身者

関連項目

ギャラリー

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脚注

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外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:各国の世界遺産

テンプレート:シラクーザ県

  1. テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
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